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オールラウンダー廻・鉄風・ホーリーランド・クローズ

『ホーリーランド』を読み終わって、終わり方についてちょっと悩んだ。終わり方が全然面白くなかったのだが、じゃあどうしたら面白くなっただろうか?と。
路上のカリスマが最後テレビ興行に出るほどに成功して、主人公はストリートの伝説の中で生きている、という終わり方なのだが、テレビ興行に出るという成功の仕方位しか短く分かりやすく彼らのハッピーエンドを演出出来る小道具がないのは分かる。面白くはないけど。
格闘技は普通プロでも格闘技一本では食えない。稼ぐには客を呼べる舞台に立つか、テレビに出るしかない。だからテレビに出たいと思う格闘家はごまんと居て、そこにストリートファイトに明け暮れていた伊沢が突然入っていって成功するまでにはかなりの地味な紆余曲折を経ていなければならない筈なのだが、その過程をスッポリ省くと上っ面を撫でた印象しかないのだ。経済的な意味で他に出口が無い事について僕は多少知っている方かもしれないが、それでも「ページの都合上で分かりやすくハッピーエンドを演出する形になりました」と露骨に言われたらやっぱりちょっと萎えるよね。
まあ『ホーリーランド』っていわゆる「非日常的世界」を舞台にしたヤンキー漫画で、喧嘩の強さのみに価値のある世界だから、テレビに出る側になる、というのはその意味では想像力としては凡庸でも、我々テレビを見る側からすると同じく非日常の世界には違いなく、一応ギリギリ一貫性は保てていなくもない。違和感バリバリだが、一応「アリ」だ。としておこう。この点について追求したくて仕方ないが、しても不毛なのは分かり切っているから。
で、同じくやばい終わり方をしたヤンキー漫画に『クローズ』というのがあって、これも喧嘩の強さだけに価値のある世界で野郎共が殴り合う漫画だ。こっちは微妙にうろおぼえなのだが、最終回付近で不良の一人が営業マンとして就職して先輩にヘコヘコしているのを、仲間の不良達に見られてしまうというシーンがある。仲間の不良達の反応は「何やってんだよ・・・」みたいな感じで、肩で風を切っていた不良仲間として失望落胆する。で、その後営業マンになった不良君はいけすかない先輩をぶん殴って啖呵を切って辞職するのだが、その後どうなったの?という描写はない。
『クローズ』の不良君達も別にかっこつけて肩で風を切って生きたい(それで人生を終えられるのが理想かもしれないが)と思っているわけではなくて、胸を張って生きたいだけなのかもしれない。社会人になるという事は媚びへつらってつまらない仕事を文句も言わずにやるという事と=であると『クローズ』では描かれていて、僕はそういう一面を必ずしも否定しないけれども、極端にそこだけ強調しているから嘘だと思う。また、『ホーリーランド』でうんちくと共に暗に示されていた格闘界への転身というコースを、『クローズ』では選ぶ事が出来ない。『クローズ』の世界は喧嘩の強さ以外に価値がないという事を貫徹するあまり、リアルな不良像からも大きく乖離したファンタジー世界になり、結果経済的自立という不良ファンタジーワールドと相容れない価値観についてはきちんと答えを出す事が出来なかった。
『オールラウンダー廻』ではそういった問題は曖昧に回避されない。主人公のライバル、山吹喬は小学生時代に喧嘩で負けた時「(喧嘩を売ってきた奴らを)金持ちになって見返してやればいいじゃん」みたいな事を言う主人公に対して「じゃあそれまでずっとコソコソ生きるのかよ。ゴメンだね。俺は胸を張って生きたいだけだ」と答えるし、試合に負けた廻に「僕、もっと強くなれますか?」と聞かれた師匠の古屋は「ああ、でもな、格闘技強いだけじゃ偉くもなんともねーぞ」と言ったりする。
4巻の巻末では作者が「格闘ブーム」は既に終わっており、日常の中で粛々と格闘技を続けていく人だけが残って格闘技を「文化」にしていく。(格闘技ブームのような)お祭りは玉にでいい、と書いている。空手青年がヤクザを相手に大立ち回りを演じるなんていう描写もあるが、格闘シーンも人物描写も基本的に極めて「リアル」である。こういう言葉は使いたくないのだが。
それも、この漫画がヤンキー漫画ではなく格闘技漫画である事が理由だろう。格闘技を取り巻く現状を描くとどうしても勝った負けただけで完結させられなくなる。同じ格闘技漫画で、女子格闘技をあつかった『鉄風』では、アマ修斗を扱った『オールラウンダー廻』と違って、興行の話が一つの軸になっている。女子格闘技というのは格闘技界の中でも特に日の目を見にくいジャンルだから、という作者の問題意識も有るだろうし、『鉄風』という作品自体も多分「天下一武道会」じゃないが、大きな興行で登場人物達を競わせるというハッタリがないと成立しない漫画なんだろうと思う。
どういう事かというと、がねこという身長の低い空手家(ゲジゲジ眉毛・ポニテ・やや自分勝手=可愛い)と身長が高い主人公が体育館裏で真剣勝負をするシーンが有るのだが、背の低いがねこのハイキックが、頭一つ高い主人公がバックステップ気味のスウェーをしたにも関わらず顎を捉えていたり(寸止めだが)、物理的にこれは有り得るのか?と思ってしまうシーンを構図や漫画的ハッタリで成立させている部分がこの作品にはある。別に悪い事ではなくて、例えばジャンプの某見開き漫画などはキャラクターとこれだけを突き詰めた作品とさえ言えるのでは無かろうか。漫画はエンターテイメントとして成立すれば基本的に問題の無い世界である事は言うまでもない。

余談だが、『オールラウンダー廻』の主人公、高柳廻は実によく考えられたキャラクターだ。日常というテーマをうまく表現出来て、総合格闘技の技術的な部分に光を当てる、という二点を両立する為にデザインされたキャラクターだ。彼は「どこが凄いのか分からん」事が作中人物によってたびたび強調されるように、目立った長所がない。フィジカルも強くないし、サイズが大きいわけでもなく、飛びぬけて優れた技術も持っていない。人物像も平凡で大したトラウマも過去もなく、歳不相応な苦労もしていない。そして、選手としては技術を習得するという点に才能を見せるテクニカルファイターである。これによって、知らない人間にとっては「非日常」と認識されるだろう「総合格闘技の世界」と我々の日常を、廻を描くだけで無理なく橋渡しする事が出来るようにしている。
実際の総合の試合では俗に「フィジカルが強い」といわれる選手が技術的優劣を無効化して勝つパターン(しょっぱい試合って奴だ)が結構多い気がするので、その点この作品はやや技術的要素に傾斜している観がなきにしもあらずだが、実際の試合でもありそうなシーンが多くて、試合を見ている臨場感が感じられる貴重な作品だと思う。

というわけで、メジャー指向の強い『ホーリーランド』『鉄風』、あくまでファンタジー世界に殉じる『クローズ』、日常を描く『オールラウンダー廻』とそれぞれ特色があり、その違いは色々読む事で見えてくる事もあるんだなあ、と思った次第である。
最後に最初の疑問に立ち戻って終わろう。「ホーリーランドの終わり方はどうすれば面白くなったか」だが、終わり方は多分あれしか無い。だから作品の構造的に面白くなりようが無かった!という事で結論としたいと思う(ォィ
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HAGANEの動画を投稿した事

動画を投稿した。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm16257714

↑これです。よろしくお願いします。

なんと面倒な作業かと痛感させられた。配信は楽でいい。
まず動画を撮影しないといけない。今回の場合はゲームのプレイ動画で、これは1時間ゲームをするだけでいい。まあ気に入らなければ撮り直す事もあるだろうが、ゲームをやっているわけだから楽なものである。
次にそれをアップロード出来る形式に編集しなおす。この行程で8時間位かかった。あほか。
最後にそれをアップロードする。これは1時間位かかっただろうか。合計で10時間はかかっている。完全に1日仕事だ。
そうした苦労の割に、マイナーなゲームという事もあって、誰も見に来ないのが少し寂しい。まあ大々的に宣伝する気はないし、仕方ないけど。

最近、配信(麻雀など)、ブログ、ゲーム(投稿含む)のどれかを飽きるまでやって、飽きたら他の事に時間を使うというサイクルが出来つつある。魔法中年暇つぶしトライアングルと名付ける事にする。
実に危険である。理論上、私の立場で暇な時間など有り得ないのだ。遊んでる暇があったら研究進めろ、本読めって感じ。というか、そっちもある意味遊びで、楽しいからやる感じなんだけど、やっぱり「本業」みたいに肩肘張っちゃうと気軽には出来なくなっちゃうんだよね。という事で、気軽に研究するくせを付けようと思う。思っているだけで別に具体案があるわけではないのだが、日に二時間とかでも毎日やる事が大事なので。
僕は多分根が結構生真面目なんだろうと思う。ブログは毎日更新しないと!とか割と思ってしまう方なのだ。しかし、一方で根が怠け者だし、ネタも段々枯渇してくるから、そのように構えてしまっては長く続かない。思い出したように更新するのが僕にとっては現実的なんだろう。

ホーリーランドと麻雀

ホーリーランドを読んだんです。それで、ホーリーランドの世界で唯一の価値になっている「誰が喧嘩が一番強いか」って、関係ない人には全く関係のない価値だよね、という感想を持ったわけですが、今回はそういう感じの話です。

ホーリーランドはストリートファイトの話だが、天鳳や格闘ゲームや、その他いわゆる競技的性質を持つものに関わる人間達の間では、すべからくこういう「誰強」話はされている。その界隈では基本的に強いとされている奴程リスペクトされる。なんとも分かりやすい。
思えば小学校でも中学校でも高校でも(人によっては大学でも)、スクールカーストというのは有ったと思う。スクールカースト内では何に価値があるかではなく、誰が影響力を持っているかで力関係が決まるところがあると思う。そういう意味では色々な価値観が属人的な力関係の中で錯綜している印象。だから、「学校では輝けないけど、僕の居場所は○○にある」みたいなケースが沢山あるんだろう。
喧嘩が強いは男子のスクールカースト内で価値を持つ事も結構あるかもしれないけれど、格闘ゲームが強いとか麻雀が強いとかいった特技はあまり価値を持たないだろうしなあ。

というわけで、学校なんかでは色々な価値観を持った奴らが集められて奇妙な秩序を作り出していたいたものだが、何に価値があるかという点に関しては結構多彩だったと思う。カースト内では周縁的な扱いをされるものでもやってる奴はやってるわけで、まあ馬鹿にされたりいじめの種にされたりするかもしれないが、好きな奴はそういう目にあって卑屈になったりしながら続けるわけ。好きなんだから仕方ない。
で、その内「同志」を見つけて自分が価値を持つ島宇宙を作っていったりする。他人事だが、多分これが出来ないとしんどいだろうなあと思う。単純に寂しいからとかいう事ではなく、自分や周囲を相対的に把握出来ないんじゃないかと思うので。ラカンかよ。

そう思うとやっぱり学校ってしんどいところだったなあと思う。僕は高校までだったけど自分にとって価値のないものに、小中高と延々付き合わされ続けたんだから。12年ですよ、12年。まあ、じゃあ今は何に価値を見出してるのかと聞かれるとうまく答えられないんだけれども。
仕事もそうで、これは金がもらえるから仕方なくやるわけだが、正直自分の携わる業務の内容に価値を見出している人とかどれだけいるのか。いるとしてそれにどれだけ根拠があるのか。まあ根拠なんて要らないんだけどね。ただそれが嘘っぱちだとしたら本人も薄々気付いてはいると思うけど。
余談だが、配信って自分の「同志」を集める為の出店みたいなもんなんだな、と思う。配信サイト自体が一定規模のユーザーを抱えていて、その大島宇宙の中で趣味ごとの小島宇宙が形成される。手っ取り早く人数を集められるが、ネット環境という事で、好むと好まざるとに関わらず顔を合わせざるを得ないみたいな濃厚で面倒な人間関係にはならないし、便所の落書きみたいなものとも付き合わないといけないという事で、それが楽しい体験になるかは個人差があるだろうが。

結局どうでもいい面倒くさい事とは縁が切れないんで(好きな事を仕事にしてもこれは変わらないはず)、そういうつまらないあれこれとうまく折り合いを付けながら居心地のいい島宇宙にはまっていく事になるわけですが、そっちの方も狭い世界で、その事を内部の人間は痛いほど分かっているので(天鳳に対するガチ勢の屈折などはこういう所から発生する)同志に対しては比較的優しいわけ。だから、あるジャンルに対する技術的な事だけを感情を差し挟まずに言えて、それがあまり感情的に受け取られない人間は結構島宇宙にとっては大事だと思う。そういう意味では僕は「感情的に受け取られない」の部分が駄目なようだ(笑)
またしても余談なのだが、ストリートファイターⅢ3rdで有名なこくじんが今度のクーペレーションカップに際して「3rdユーザーのクラスターが崩壊の危機に瀕している」ので「もう一度3rdを盛り上げるようご協力お願いします」と配信で発言していておおっと思った。共同体の一員であると自覚した上で、その共同体を守ろうとしているという意味で実に共同体主義的。いや、必ずしも悪い意味ではないというか、むしろここでは褒めている。是非頑張ってもらいたいものだ。

というわけで最後に現在の麻雀界における天鳳の価値をあげておこうと思う。
1.実力本位である
・ある程度のメンバーの選抜が行われている
・長期の成績を容易に算出できる=実力をはっきりさせやすい
2.システムが洗練されている
・牌譜の参照機能が他サイトと比べて使いやすい
 *様々なブラウザで牌譜を開ける
 *プルダウン式で特定の局面に速やかに移動出来る
 *手出しツモ切りの暗転が可能、他家の手牌の開閉が容易(手牌読みの確認など)、牌山公開機能付き(山読みなど)

天鳳運営にはこういった辺りを堅持していただきたい。特に1が大事で、こういった環境は現状天鳳にしか存在しないからである(勿論天鳳が競合サイトを食っているからだが)。2は1の価値観を上手く補完出来ているという点が優れているとも言える。

麻雀プロのタイトル戦をぼさっと見ていると、実にもやもやした気持ちになる。プロが弱いとは僕は思わない。だが、今の麻雀プロは麻雀島宇宙限定のタレントでしかないし、タイトル戦はそのタレント達がCMタイムを賭けてくじ引きをしているだけである。その事自体が悪いとは思わないけど、競技を名乗るなと思う。タイトル戦を囲む4人だかの中で、誰が本当に一番強いと言えるのか?タイトル戦の結果を見れば分かるって本当に信じている奴がプロの中にどれだけいるのか?もしかして、沢山いるんだろうか…
プロは何千戦も打って、その結果でタイトル獲得者を決めろよと思う。その為に形式を変更していけよ、少しずつでいいから。それが無理ならどんな事情が有ろうと競技を名乗るな、といつもそう思って見てしまう。そういった事を全部分かった上で麻雀プロをやっている人達は、何を考えて団体にお布施をして、休みを潰して参加しているのか。何か楽しい事でもあるのか、有名になりたいのか…。分からない。

理屈と行動

大学院に合格した事を伝える為に通っていた予備校に電話してから、もう3週間程経っている。
電話した時に「合格体験記を書いてくれないか」と言われて最初渋った。面倒くさかったのだ。「それって書かなきゃいけないんですか?」と聞きさえした。しかしまあ世話にもなった事だし書くか、と思って最終的には「分かりました」と言ったのだが、それから全く手を付けていない。
送られてきた手紙に字数の指定などが一切無いとか、内容の指定が漠然としすぎているとか、そういう些細な部分が気になるからではなく、もっとシンプルに僕のやる気の問題だ。それでズルズル伸びたままになっている。
書くならいい加減なものでなく、面白いものを書きたい。中途半端なものは書く気にならない。などと思っている時点でそりゃ書けないだろう。文章というのはともかく書いて書いて書きまくらないと上手くならないだろうから。勿論何も考えずに書いていればいいというものではないと思うが。僕のようなアマチュアはまだ、ある内容を書く時にどのような書き方をすればより効果的に書けるか、などといった課題に直面するレベルには無いだろうから、とりあえず書き垂れるしかないんじゃないかと思う。根性論か精神論か、自分で言っててアホらしくなってきた。
僕は頭でっかちなところがあって、行動より理屈が多いから特にそう思うんだろう。
僕は考えられる事は全部考えて、その上で行動するのが理想だと思っている。実際、行動あるのみ!とか果断に!とか言ってる政治家にはろくなのがいないではないか。じゃあマシなのはどこにいるんだ、という質問は受け付けない。政治の力は強力で、これ無しでは事態を好転させられない事も沢山あるのだが、その力はそれを使ってこの国をどういう国にするかというビジョンとセットでないと使えないのだ。それも、特定の誰かだけ得をするようなものでは駄目で、出来るだけ誰にも割を食わせないようなものでなくてはならない。そのためにはあらゆる要素を考慮に入れて・・・いかん、何も出来なくなってきた。まあそういう事だ。
要するに最初から完璧なものを想定するから駄目なのだ。人間、なにかをすると必ず問題が起こってくるもので、その時にどこがどうまずいかを誰かが言わないといけない。言われた側はその批判をバランスよく吸い上げていかないといけない。適宜そうやって状況を最適化させていくのが結局最善なんじゃないかというのが、カウンターパワーという概念だったと思うのだが、言ったのは誰だったか・・・最近物忘れが激しくていけない。
体制に対して発言力や、そもそも発言方法を持ち得ない連中もいて、そういう奴らを体制に組み込んで発言権を与えつつ同化していくのが本当にいいのか、という議論もある。なかなか難しい問題だが、まあそういった事を考えたい人はスピヴァクという人の本を読むといい。僕には荷が重い。

なんの話だったか・・・そう、合格体験記をさぼっているという話だった。完璧なものを書こうなどと意気込まず、ちゃっちゃっと書いてしまおう。超つまらなくなりそうだけど・・・。

木曜と十段位と麻雀と

冷蔵庫を開けて烏龍茶を昨晩飲み尽くした事を思い出した僕は、面倒くせえな、と思いながら買い物支度を始めた。支度といっても、部屋着をかろうじて外出可能な格好に着替えて、ポケットにビニール袋を一つ突っ込むだけで、その上今日はそのビニール袋の用意さえも必要ないときている。平日昼間だが労働とは無縁だ。起床したらブログをちょっと書いて、配信しながら麻雀をやって、飯を食って、寝る。我ながら自堕落な生活をここしばらく続けていて、いい加減そろそろ論文を書く準備を始めなければいけないな、と自戒する。これも毎日の事だ。
外は天気がいい。木曜日という事はヤングジャンプと少年チャンピオンとモーニングが出ているな、などと歩きながら考える。これからの行動予定を漠然と思い描いた次に考えるのは、麻雀の事だ。考えるというより、もやっとそちらの方に思考が流れる感じ。

昨日の麻雀は内容がそこまで悪くなかったし、順調に勘が取り戻せれば鳳凰復帰も遠くないかも・・・。
そういえば十段位戦の事を福地がネットラジオで話していたが、森山が「森山ジョンイル」と呼ばれているらしいとか、森山はプロデューサーとして有能らしいとか言っていて面白かったな。森山ちょっと見直したわ。でも、連盟ってあんな団体だったんだな。人間関係とかドロドロじゃん。連盟の利益になる事は出来るだけしないようにしよう・・・

思考はとりとめがない。友人が働いている八百屋で野菜を買い込み、その足で駅前のスーパーにハシゴする。八百屋で袋をもらっているので、スーパーでもらう必要はないという寸法だ。スーパーで袋をもらわないと2円引いてもらえる。ビニール袋の生産を減らしてコスト削減出来た分を消費者に還元する、それでビニールの消費量が減ればエコにも繋がるという論法なのだろう。まあ色々突っ込み所はあるが、好きにしたらええ、と思う。本当に本気でエコをするなんて人間には、分けても日本人には無理だろう。

好きにせえと言えば、某英雄の日記で(これの事だ→http://clubforstrangers.txt-nifty.com/pechorin/2011/11/post-5650.html)某鳳東十段が褒められていたっけ。英雄はプロになれなんて言ってたけど、梶本琢程の「麻雀プロは有名になりたいからなったっていう気持ちがどこかにあるはずだ」という配信での言葉にもある通りで、麻雀プロにとっては麻雀振興は自分が住んでいるピラミッドを栄えさせてそこから利益を得る為の、要するに自分の利益の為の行動なわけで、僕はプロがどれだけかっこいい事を言っていても好きにせえやとしか思わないだろうなあ。アカギではないけど、不合理な行為こそが人の心を打つのであって、そういう意味では僕は麻雀プロに心を打たれる事は一生無いだろうな・・・

支払いを済ませ、帰路につく。帰りは行きとは違うルートを通りたくなったので、外の大きなけやきを見上げながら迂回路を取る。ビルの3階まで届くけやきの木は、よく分からない理由で僕の目を楽しませ、その存在だけで僕の心に何かを思わせずにいられない。何故現代の我々は木や動物をこれほど偏愛するのか。これはなかなか答えのでない問題に違いない。一つだけ言えるのは、近代建築と街路樹の取り合わせは美しいという事だ。確か永井荷風が『日和下駄』の樹の章で「(街路樹が)どことは言えないが、東京に独特の趣を作り出している」といった事を書いていたと思うが、そういった感覚を今私も共有している。
かつて踏切があった立体交差に向かって歩を進める。立体交差になることで、昔踏切だった線路横の道路の車通りが著しく減った。僕はそういった、せせこましい往来に突如出現した空白のようなスポットが好きだ。昔新宿の小田急ビルの近くに信号がない横断歩道があって、そこは歩行者と自動車双方が参照すべき交通法規を見失ってとまどうような、そんな空間になっていて僕は大いに気に入っていたのだが、ある日信号が設置されてしまった。
立体交差をくぐって、車通りの少ない住宅街を抜けて自宅に帰るのがお決まりのコースだ。

思えば麻雀には無頼、非合法、アウトローみたいな社会的イメージがあって、それが僕に麻雀を打たせたのではなかったか。将棋でも囲碁でも対人CPUゲームでもなく、麻雀を選んだのはなんとなくそういった社会的イメージにシンパシーを抱いたところがあったんだろう。なんとなく自分にとって必然のルートというか、好みのパターンというか、そういうものがあって麻雀を始めたんだろう。無頼は自分を「権力の埒外」にあると定義づける事で結果として権力と、その影響範囲の境界を再生産、強化しているって論じたのは誰だったか、名前が出てこない。もっとも、既存の権力?なにそれ?と言われて久しい、中間集団が消滅した国に生きる僕たちにとっては無頼とかいった概念もクラスターを形成する為の動機付けという機能しか果たしていないのかもしれない・・・

自宅まで後2分、住宅街の真ん中で足が止まった。向かって左手のクリーム色の外壁の家、カースペースと道路を区切る柵が何か外側から強い衝撃を受けた感じに壊れている。カースペースには幼児向けの遊具が複数放置されている。車の形をした黄色いものや、他にもいくつか原色の玩具が、かなりの時間放置されている事をうかがわせる汚れ方でそこに有った。玄関の方に回ってみると、管理会社のものだろう看板が玄関に掲げられており、売り家なのだと分かった。クリーム色だっただろう壁は風雨にさらされて黒く変色しており、住む者がなくなった家は傷み方がひどいという具体例と化している。自宅に再び足を向けながら妙に感傷的な気分になった。

破れ窓理論でいうと、廃屋は治安を悪化させる元らしい。
廃屋は実際不良とか柄の悪い人間がたむろするには絶好の場所で、犯罪も多い。それで危険な雰囲気が漂って、段々人が寄りつかなくなって、その内聖なる場所になっていく。日本は多神教だから幽霊や妖怪の住処になる。キリスト教圏だとやっぱり悪魔が住んでいるんだろうか・・・

かつてそこに住んでいただろう家族の消息もどういった経緯であの家を出たかも、今の僕には想像するより他に術がない。
アパートの階段を登る。
そういえば今日は見なかったが、近所でやたら背の高い黒人をチラホラ見かける。なんとかいうプロバスケットボールチームのプレイヤーが住んでいるのだろう。チーム名が書かれた車が留まっているのも見た事がある。僕はバスケの試合を鑑賞するのが好きだが、自分でプレイする気にはならない。やるより見るのが好きなんだろう。見るのなんて退屈で、どちらかといえばやる方がいいと思うのは麻雀位だ。僕が麻雀初心者だった頃、多くの麻雀打ちに麻雀が下手であるという事をもって散々偉そうな顔をされた経験があり、将来麻雀打ちにだけはなるまいと思ったものだが、不思議な事もあるものだ。せめて麻雀上達中の皆さんを、ただそれだけの理由で蔑んだりしないように気を付けようと思っている。ベテランプロの実況解説を見ていると僕を馬鹿にした打ち手達を思い出して、そういった自戒を新たにする事が出来るという効果があるのを意識したのは、天鳳名人戦・第一節のなんとかいうおっさん達を見た時だったか。
僕の日常には麻雀が組み込まれていて、新たな知見や斬新な視点をもたらしてくれるわけでもないのに、妙に偉そうに居座っている。

帰ったらとりあえず飯を作って、それから天鳳でもしようか・・・

そんな事を考えながら僕は家のドアを開けた。

エルナードとミスティックアーク

エルナードにもミスティックアークにも良さはあるけれど、ミスティックアークは「努力・友情・勝利」で暑苦しい。それに比べてエルナードは性悪説的世界で殺伐としている。正義の味方や仲間だと思っていた奴がたやすく悪の道に走ったり、最後のどんでん返しもそう。二元論的で単純ではあるけど、その殺伐としたところに魅力がある。僕はゲーム全体としてはミスティックアークの方が好きだが、物語だけ見た場合エルナードの方が好きだ。

さて、そういった物語観を前提に両者を見ていくとどうなるか。
エルナードもミスティックアークも、序盤はかなり回り道をさせる展開が続く。エルナードはライバル達が既に先を急いでいるという演出を入れてプレイヤーが先に進む動機付けをしている。いわゆるつかみの部分に関してはエルナードは実に巧みだと思う。プレイヤーはただの演出だと分かっていても、何となく先を急ぎたくなってしまう。続きも気になるし。
対してミスティックアークの導入部は、延々と目的地不明のイベントが続き、面倒なおつかいをしてフラグを積みあげていかなければならない。それもたった一人で。このゲームの戦闘システム、一人用に出来ていないのだが…。という事で、あのRPG全盛の時代にいきなり延々ドラクエ1をやらされるわけだ。この時の我慢が後に仲間加入時の喜びに繋がるかといえば、意外とそうでもないのが悲しいところで、第一世界が余りに長いために一人パーティーになれてしまうし、仲間が加入したところで戦闘が突然ぐっと楽になるかというと案外そういう事もないからである。この辺り、エルナードほど演出が練れていない印象がある。
エルナードには物語を進めたくなる仕掛けが幾重にも施されているが、ミスティックアークにはそういった工夫がみられない。

そして、エルナードで重要なのは、序中盤は自分とパーティーを組むパートナーが「利害が一致しているだけの他人」に過ぎないという事だ。これがプレイヤーに、頼れるのは自分の操作キャラ一人である事を強く意識させると共に(実際他のライバルとの戦闘ではパートナーは一切力を貸してくれない)、一時的な関係とはいえ戦闘時に仲間がいる事の心強さを教えてくれる。誰も信頼出来ない世界の方が信頼の価値は高いのだ。
ミスティックアークの世界では味方は全員無条件で力を貸してくれるし、味方チームの全員がお互いの為に無条件で命を賭けて戦ってくれる。理想の人間関係が最初から出来てしまっているわけだ。
ミスティックアークは個々の味方キャラクターそれぞれと関係の深い世界を巡って、パーティーの仲間達を世界ごと救っていく物語なわけだが、無条件に信頼出来る仲間であるというところで既にキャラクター演出に関してのロスが発生しているし、結局仲間達の人となりはよく分からないまま終わってしまう。もったいない。
ミスティックアークは他にも、攻撃魔法が弱すぎるとかステータスアップアイテムを無限増殖出来るとか(これは時間も手間もかかるし仕様かもしれないが)バランスが妙に悪いところが目に付く。エルナードに比べて開発規模が大きくなって、バランス調整が間に合わなかったか。後半はそのバランスの悪さがいい方に働いて、戦闘バランスを崩壊させるプレイが楽しくなってくる。

エルナードもミスティックアークも戦闘システムだけを取り出してみれば凡庸の一言で、もっと面白い戦闘システムのゲームはいくらでもある。やはり物語や演出、BGMがこれらの作品の最大の長所だと思う。そして、ゲームプレイ時間の大半は戦闘にあるので、戦闘が幾分楽しめるミスティックアークの方がゲームとしては面白いと思う。エルナードの戦闘は、アークの効果が強すぎて俺TUEEEは出来るものの、後半は作業になってしまう。

とまあ概ねエルナードを褒めてミスティックアークを貶して来たわけだが、エルナードの物語に不満が無いわけでもない。物語の理想像を言えば、エルナードのような性悪説的でゲーム理論的不信に満ちた世界の中で、ミスティックアークのように手を取り合って共に戦う事だと思う。というわけで、エルナードは最後に残った自分のパートナーとの間に信頼関係を築くとか、アークを奪いに来た奴と上手い事協調していくようなイベントが有っても良かったんじゃないか。
人間は奪い合って殺し合ってだけの生き物じゃないし、逆にみんな仲良し正義の味方って事も当然ない。たとえ人類の多くが学ばなくとも、せめてフィクションの登場人物くらいは戦いから何か学ぼうぜ、と思う。欲しい物があったら力ずくで奪えばいいとか、いくらなんでも頭が悪すぎやせんかと。まあアークを手に入れたら世界を牛耳れるんだから、とち狂うのも無理はないんだろうけどね。

というわけでさっきまで十段位戦の事とか麻雀の事を書こうと思っていたのに、気付いたら何故かゲームの事を書いてしまっていたのでした。アホ。

皆無とマトリックス

ONE OK ROCKの「皆無」という曲の事。

http://www.youtube.com/watch?v=WEnO-81KUfg

歌詞を見ると我々の住む世界や宇宙の外に何かが存在しているというモチーフがある。
近年の作品だと映画「マトリックス」などで見られたモチーフだ。
SFでは結構よくあるアイデアで、今思いつくだけでも「フェッセンデンの宇宙」や「百億の昼と千億の夜」などを挙げる事が出来る。
マトリックスにおける現世の外の存在とは機械生命体であり、人間達に幻想を見せ搾取を行っている。正直あんな手間のかかる割に得られるエネルギー量が少なそうな形態を取る必要は一切無いと思うのだが。あいつら頭が悪いのか、機械生命体の間でも有機栽培だかエコが流行っているのかは知らないが、要するに巷間では未だに偏狭なラッダイト精神が幅をきかせていて、機械生命という概念を束縛しているのだろう。アホらしい限りである。
さて、マトリックスにおける外の世界の存在は、人間達とコミュニケーションを取る事も出来るし、同じ土俵にいる印象がある。結局最後は異種族間コミュニケーションというエンターテイメント定番の型に落とし込んでしまったわけだし。
それに対して「フェッセンデンの宇宙」や「百億の昼と千億の夜」では、我々の住む宇宙の外にいる超越的存在が我々の宇宙に干渉してくる。これはもう手の出しようがない、正にお手上げ状態である。宇宙の外に出る方法ってなんかあるんかい。
「フェッセンデンの宇宙」ではマッドサイエンティストが模造宇宙を作り、その中の惑星を恣意的に動かす事で他惑星の知的生命体と戦争を起こさせるという話だ。超越的存在が悪意を持って、興味本位に我々の宇宙に手を突っ込んでいじっているとしたら、それは正に悪夢という他無い。
余談だが、シュミレーションされた生命というモチーフについて考える時、私は「ニルヴァーナ」という映画を思い出す。恣意的な理由によって作られて、他人に自分の運命を決定的に握られているという状態は、悲劇的物語と親和性が高いのだろう。ある物語が悲劇になる理由はそのモチーフが「社会的に認められていないか(例:ロミオとジュリエット)」、「感情的に認められにくいか(例:たった一つの冴えたやり方)」だが(本気にすんなよ)、作られた生命という概念はどちらかといえば前者に抵触するのではないだろうか。
そして「百億の昼と千億の夜」の超越的存在は、用意周到な計画でもって冷徹に我々の宇宙を滅ぼそうとする。宇宙規模の介入が可能な存在による影響は、この物理宇宙で可能な現象である限り無限に増大させる事が出来る。それに抵抗する、絶望的な戦いは現代の日本に蔓延するシニシズム、ペシミズムと実によくシンクロしていると思う。まあ日本には自分で闘おうなんて奴はほとんどいないんじゃないかと思うけど。
「皆無」で想定されている超越的外部は、「フェッセンデンの宇宙」のマッドサイエンティストが最も近いと思う。我々の物理宇宙を癒しに使う連中はあまり趣味がいいとはいえないかもしれないが、我々の尺度で測る事が出来るという点で、まだ人間との共通点を感じさせる。前述したとおり、この宇宙に「外から」干渉してくる存在とは、この物理宇宙での限界に囚われない存在で有り得るのだ。我々人間が理解出来るレベルの「思考」を持っていたり、なんらかの癒しを我々の宇宙から得るような存在である必然性は一つもない。まあそういう奴らである可能性も否定は出来ないが。なにせ、なんでもありなわけだから。
人類の歴史には、先天的な差を社会的な不利益にしないようにしようとする思潮が一方に有ったと思う。その観点から見ると、「宇宙外存在」も「人工生命」も新たなる権力上下関係につながる概念である事は間違いなく、結果悲劇的な想像力に結びつけられがちであると思う。

共感出来ないと思った言葉

僕が今までの人生で共感出来なかった二大セリフは「女だったら誰でもいいに決まってるじゃないですか」と「配信してる人は有名になりたいんだと思う」だった。
前者は学部2年だったか、大学のゼミで後輩の学生が言った台詞だ。
後者は最初に聞いたのが梶本琢程プロがニコ生の配信で、その時は麻雀プロになる理由という話の延長線上でそういった事を言っていたと思う。その後、つい最近某配信者が言っていた。

まあ共感出来ないって言うのは本当に全く相容れない理解不能の概念という事ではなくて、そういった欲望は身に覚えがない事もないけど、今の自分には特段価値を見いだせないという位の意味だけど。

さて、前者については、僕は性欲はあるけどあんまり女性を性欲処理の道具として扱うのはなんか嫌だなあ、という理由であった。
後者については、僕は配信をするのは基本的に「楽しい事をしたいから」であって、有名になりたいからではないという事だ。そもそも麻雀配信で有名になるとしても狭い麻雀界隈での事に過ぎないので、麻雀界隈で有名になるならプロになるべきだし、もっと広く有名になりたいならテレビに出る努力をすべきだと思う。十段位戦のニコ生放送は10万人以上を集めたが、重複者がいる事も考慮すると、テレビの視聴率で言えば1%未満の***枠に過ぎない数字だ(テレビ局の番組毎の視聴率一覧表では、1%より少ない番組枠は*表記でいっしょくたにされる)。
また、何の為に有名になるのかという問題もある。例えばお金を稼げるレベルの知名度であるとか、異性にもてる程度の知名度を配信で得られるとは、僕は思わない。今後は分からないが、少なくとも高額の収入を得られるレベルの配信者となると、一人もいないんじゃないかとさえ思う。だから、配信をするのは有名になる為ではなくて、配信という行為自体から得られる刺激や便益の為で(私は完全にこれが理由だ)、知名度に関しては多少の自己顕示欲を満たす程度の効果しかないと思う。
あと仮に有名になったとして、多くの人と交流を持つのは僕は面倒くさい。大体の人間に僕は興味がなく、興味がない人間と二人だけでいるのは残念ながら退屈で苦痛なので、僕がどうでもいいと思う人は出来れば一切寄ってきて欲しくない。こういう事を他人に言うのは失礼極まりないし、自分でも傲慢だと思うので特定の誰かといる時はあまり言わない様にしているが、まあここに書く位はお許しいただけるだろう。

言葉を尽くさなければならない事

そういえば昨日某配信のコメ欄で僕が「票を入れる政党がないです」とコメントしたのに対して「出来るだけおかしな方向に進まないように投票すべきで、票を入れる政党が無いというのはおかしい」みたいな事を言われて、僕はおかsくないし誤解があるなと思った。
まず、そもそも現時点における配信というメディアは、双方向とはいっても配信者以外の声は決して大きくならないと僕は思っているので、言葉を尽くして語らなければならない内容について、複数人で議論するには実に不向きだと思う。
で、アニメ『東のエデン』の主人公が「この国(日本)には頭のいい奴は沢山いるけど、自分で体を張って汚れ仕事をやる奴がいないんだよね」といった内容の事を言っていて、それに非常に共感した覚えがある僕からすると、民主主義とは国民が政府をコントロールするという建前の概念だというのは自明の事なのだ。そして、支持する政党が無く、支持したくなる政策も示されない中で、それでもなお将来を予測して票を投じなければならないという状態は僕はちょっとした悲劇だと思うが、それはともかく政府のコントロールと支持政党の有無が別の話なのだとしたら、僕がどこにも票を入れていませんとでも言わない限り僕におかしい所は無いと思うわけだ。ちなみに僕は暇人なので投票には必ず行っている。
さて、僕にコメントしてきた人に僕の考えている事を出来るだけ正確に伝え、何か誤解が有った事を指摘する為に僕は何字を費やさなければならないだろうか。そしてその、おそらくはかなりの長文になるだろうコメントは配信を見ている人達にどのように受け取られるだろうか。と考えるとその行為の不毛さに気が遠くなるほどだ。そうでもないか。
こういうはがゆさは私個人に対する誹謗中傷をコメント欄でされた時にも稀に感じる。きちんと反論し、言うべき事を言いたいのだが、言葉を尽くさなければそれは叶わないのである。
だから配信は、少なくとも現時点では、感情のメディアであると僕は思う。私は感情それ自体は好きでも嫌いでもないが、感情に任せてものを言う奴は嫌いだ。お前の感情など私にはなんの関係もないし、お前の感情になどなんの興味もない、と思うからだ。配信ではそういった感情の発露にしばしばうんざりさせられる。そういう世界なのだと割り切るしかないのだが。

投票の話題に関係して裁判官の罷免投票の話が出ていたが、これは現在日本の刑事裁判で起訴されれば有罪率99%であるという事実を挙げるだけで必要性が有ると了解出来ると思う。もしくは裁判員制度を導入すべきだという主張の理由について考えるのでもいい。それらの原因が検察だけに有るわけではない事は明らかだ。得票率が50%だかに達しないと裁判官はかわらず、今の得票率は一桁だかだと思うのでろくに機能していないのは間違いないが、それは多分制度を使う側に関心がないだけの話だ。

とまあ、ある事柄について議論を戦わせるという事は、場合によっては多くの言葉を尽くして出来るだけ正確に語ろうとしなければならない事もあるので、配信で扱うのは向かないと僕は思う。政治とかね。

四井浩一とロシア

四井浩一がプロデュースした作品にはロシアがよく出てくる。気がする。
ストライダー飛龍では1面の舞台がクレムリン宮殿で、ボスのウロボロスは鎌とハンマーを持っている。
余談だが、ウロボロスは双頭の蛇で、永久に続くとかそういった意味の象徴だろうから、進歩史観を標榜したソヴィエトの権力の中枢にいるのはそうしたイズムへの皮肉とも読める。グランドマスターの「死ね!旧き神の子ども」というセリフとその根底にある思考も、人類は進歩し続ける事によって社会をより良いものにする事が出来る、という考え方を否定している。
東風という中国人女性がボスキャラとして登場する事からも、飛龍の敵対勢力として旧共産圏が意識されているのではないかと思わせる。ストライダー飛龍の舞台装置は、ロシアそれ自体というよりも共産主義なのかもしれない。そういえばストライダー飛龍の後継作と目されるキャノンダンサーで、主人公麒麟の敵役として出てくるレイゾンは「連邦」の高官なのだが、この連邦とはアメリカではなくソヴィエトが念頭にあったのかもしれない。首都はプラハらしいし。
更に余談だが、グランドマスターの考え方は選民主義的で現世否定的なものだが、飛龍は現世を肯定したり現行の社会を守る為に戦っているのだろうか。飛龍の思考をトレースするには彼の言葉数はあまりに少ないが、任務第一主義であんまり何も考えていない奴な気もする。一見すると彼からは任務遂行への意志や職務への矜持しか感じられない。東風に「貴様らにそんな玩具は必要ない」と言い放った飛龍だが、では彼が必要だと思うものは一体何なのか。

ノスタルジア1907では、日露戦争直後の帝政ロシアが物語上極めて重要な位置を占めている。
ウォーラーステインだったかが「ソヴィエト連邦は帝政ロシアの版図を受け継いだ故に連邦内の民族主義ナショナリズムを抑圧する事になった」というような事を書いていたと思うが、ソヴィエトを胚胎し、日本とも関係浅からぬロシアをとうとう直接扱う準備が整ったのか。
チェルノブのように、ソヴィエトをチェルノブイリの事故を起こした、やや排他的で謎めいた異質な存在として扱おうという想像力は、決して当時の日本では珍しいものでは無かっただろう。
ノスタルジア1907におけるロシアはそうした感覚的・現代的に把握されるものとは違い、歴史的・静的な印象を受ける。はっきり言えば、後付けならなんとでも言える、といった感じ。無論主人公・カスケはポーツマス条約に関して後世衆愚とそしられる類の感情論を展開するし、ロシア人イリューシャは「ロシア皇帝が死ぬ時、きっと私も死ぬんだ」と革命に沸くロシアの変化への複雑な感情を覗かせてはいる。しかしそれも含めて、日露戦争直後の人間達の同時代的感覚に触れた気にならない。教科書やものの本で得た知識で充分把握出来てしまえる程、過去の再構築は簡単でないのだなと思わせられる。頑張ってるのは分かるんだけどね、みたいな。
一ゲームとして見た時、爆弾解体でだれる可能性はあるが、アドベンチャーゲームとしての出来はかなりいい。伏線の配置と回収もニヤリとさせられるし、歴史上の人物がさらっと戯画化されて登場するのも面白い。メガドライブ版では声優が人を選ぶところはあるかもしれないし、実際素人臭い演技も目立つが、それもご愛嬌。売れそうにはないけれど。

この四井浩一という人、ストライダー飛龍以上のヒット作には多分絡んでいないんだろうな、と思う。プロデュースは出来ない人なのか、下手くそな相方に当たりまくったのかは定かではないが。なんだか売れなさそうな作品を作っちゃう人なんだろうなと思う。こういう人が生き残って未だにゲーム作りに参加しているのは多分ゲーム業界にとっていい事なんじゃないかと思う。ムーンダイバーの評判は良くないみたいだけど!

※この文章は四井浩一氏へのインタビューなどを一切読んでいない妄想の産物です。

最近

まずは麻雀。守備が甘い。制限時間内に安全度の高い牌を取捨選択出来ていない。これは昔からそうだったのだが、比較的成績に影響しやすい弱点なので潰さなければならない。

ゲームはキャノンダンサー、ストライダー飛龍など、四井浩一関係のものがイカしていると思った。非常に高い戦闘力を持った一匹狼の主人公が全世界を敵に回して大立ち回りを演ずる。そして、最終的に神の如き存在を超越するというお話。セリフもいい。

上手い人のプレイ動画

・キャノンダンサー
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14527914
・ストライダー飛龍
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2196318

四井浩一作品ではアクション以外にも、アドベンチャーの『ノスタルジア1907』などがある。歴史物でミステリー仕立てになっている作品で、これも面白い。

セリフといえば、ストライダー飛龍の「貴様らにそんな玩具は必要ない」とか「だから貴様は飼い犬なのさ」とか「貴様の辞世の句なら、その程度だろうよ」なんかは麻雀配信にも応用出来る事は間違いない。
「(ドラをがめながら)貴様らにそんなドラは必要ない」、「(放銃した相手に)だから貴様は5段なのさ」「(疑問手を打った相手に)貴様の雀力なら、その程度だろうよ」なんぼでもバリエーションが作れそうな上に、煽りレベルも高い。元ネタを知らない人には通じないのが難点か。

魔法中年は何を考えて麻雀を打っているか。概説

今回は、私が麻雀(特に天鳳)を打つ時に意識している事を書きます。大した事を考えていないのと、具体例を出して各論に細かく分け入ったりはしないので、この一回で終わるはずです。

0.麻雀観
 私は統計的に否定されていたり、具体的な根拠になり得ない要素は基本的に考慮しません。
 麻雀を「奥の深いゲームだ」という人は、水たまりに底なし沼の幻を見ているか、見たがっているだけなのではないでしょうか。人にもよるでしょうが、麻雀は基礎的な部分を押さえるだけで何年もかかるような、膨大な下積みを必要とするゲームではないと思います。

1.配牌直後
 まず自分がどの方角なのかを確認し、その後ドラを確認します。
 そして、点数状況を確認し、手牌を見ます。
 点数状況と手牌を見て、その局のおおまかな方針を決めます。
 選択肢は大きく分けて3つあります。
  A.他家(主に下家)に対して絞る。
  B.他家(主に下家)にアシストする。
  C.自分であがりにいく。
 BとCを同時に行うのはさほど困難ではありませんが、AとCを同時に行うのは極めて困難です。また、BとCを同時に行う場合、どちらにより比重を置くかも考えなければならないでしょう。
 Aは下家の親を蹴りたい時や、自分が和了に向かえない時に下家の和了率を下げる為などに行います。
 Bは下家以外の親を落とす時や、着順を確定させたい場合などに使い、下家の和了率を上げる為に行います。その際、アシストした人のテンパイ気配で、他家が降りる可能性とその後予想される展開も計算しておきます。勿論予想通りに行く事は稀なので、大雑把にしかしません。

2.打牌
1の方針によって打つ牌が変わります。
 A.他家(主に下家)に対して絞る。
  他家がなんの役であがりを目指しているのかを予想する必要があります。序盤は端牌やオタ風などを切って様子を見、役がある程度予測出来るようになったら役に絡まないだろう牌を切り続けます。またこの時、安牌を決して切らせないように気を配ります。
 B.他家(主に下家)にアシストする。
  Aと同じく他家がなんの役であがりを目指しているのかを予想する必要があります。この時、役牌や風牌の切り順や切る順目なども考えます。役牌は順目が深くなるほど重なる確率が上がり、鳴かれる確率も上がりますし、切られれば安牌にも成るのでアシストする局では重要な牌になります。
  また、オーラスなどアシストする側に条件が付く事がある場合、打点も考慮してアシスト牌を選びます。
 C.自分であがりにいく。
  まずどのような役を作るかを考えます。基本的に和了率は鳴き手>面前手なので、鳴ける可能性が極めて低い手牌では私は28牌より役牌を残す事が多いです。
 後は受け入れ枚数と最終形の良形率、打点、守備力をそれぞれ考慮しながら打つ牌を選択していきます。受け入れ枚数は基本的に最大を目指しますが、フーロを面前枚数より重視する事も非常に多くなります。また、条件戦では打点を最優先にする場合も珍しくないでしょう。パターンが多すぎて抽象的になってしまいましたが、大まかな方針は以上になります。

3.守備
 私はこの部分に難があります。相手の手牌読みや、牌の安全度の比較や選択が苦手です。また、ほとんどのケースで手出しツモ切りをきちんと記憶出来ていません。これによって、実際では危険でないと判断出来るケースで危険だと判断する事が増えていると思われます。
 私は基本的に必ず守備を念頭に置きます。どうしても手牌を危険牌のみで構成させなければならない状況でも、その状況を可能な限り解消しようとします。放銃はほとんどのケースで不利にしか作用しないという感覚を強く持っている為です。
 守備は、基本的に推測で成立しています。
 相手の役は何か、打点はいくらか、手はどの位進んでいるのか、待ちはどの辺りか。
 役は切り順やフーロから、打点は見えているドラの枚数と予測される手役から、速度は予測される手役に対して関連牌がどの位切られているかから、待ちは最終手出しとその前の手出し牌、それ以前の牌の切り出しから待ちの有無を推測して判断する事になります。

4.オーラス
 オーラスは他の局に比べて意識しなければならない事が増えます。
 流局時に罰符を払った時の順位予測。各打ち手がそれぞれどういった方針を取るか。何点和了すると何位まで順位上昇するか。何点放銃すると何位まで順位下降するか。差し込めるか否か。
 これらを総合して、手牌と相談しながら方針を決め、選択をしていきます。

麻雀の技術論は各論に入らない限り、極めて簡潔に少ない分量で書ききる事が出来ると思います。これから麻雀の戦術について書こうと思っておられる方は、大したことを考えていないのがばれて権威を失墜させないよう注意して書く事をお勧めします。
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魔法中年

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