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皆無とマトリックス

ONE OK ROCKの「皆無」という曲の事。

http://www.youtube.com/watch?v=WEnO-81KUfg

歌詞を見ると我々の住む世界や宇宙の外に何かが存在しているというモチーフがある。
近年の作品だと映画「マトリックス」などで見られたモチーフだ。
SFでは結構よくあるアイデアで、今思いつくだけでも「フェッセンデンの宇宙」や「百億の昼と千億の夜」などを挙げる事が出来る。
マトリックスにおける現世の外の存在とは機械生命体であり、人間達に幻想を見せ搾取を行っている。正直あんな手間のかかる割に得られるエネルギー量が少なそうな形態を取る必要は一切無いと思うのだが。あいつら頭が悪いのか、機械生命体の間でも有機栽培だかエコが流行っているのかは知らないが、要するに巷間では未だに偏狭なラッダイト精神が幅をきかせていて、機械生命という概念を束縛しているのだろう。アホらしい限りである。
さて、マトリックスにおける外の世界の存在は、人間達とコミュニケーションを取る事も出来るし、同じ土俵にいる印象がある。結局最後は異種族間コミュニケーションというエンターテイメント定番の型に落とし込んでしまったわけだし。
それに対して「フェッセンデンの宇宙」や「百億の昼と千億の夜」では、我々の住む宇宙の外にいる超越的存在が我々の宇宙に干渉してくる。これはもう手の出しようがない、正にお手上げ状態である。宇宙の外に出る方法ってなんかあるんかい。
「フェッセンデンの宇宙」ではマッドサイエンティストが模造宇宙を作り、その中の惑星を恣意的に動かす事で他惑星の知的生命体と戦争を起こさせるという話だ。超越的存在が悪意を持って、興味本位に我々の宇宙に手を突っ込んでいじっているとしたら、それは正に悪夢という他無い。
余談だが、シュミレーションされた生命というモチーフについて考える時、私は「ニルヴァーナ」という映画を思い出す。恣意的な理由によって作られて、他人に自分の運命を決定的に握られているという状態は、悲劇的物語と親和性が高いのだろう。ある物語が悲劇になる理由はそのモチーフが「社会的に認められていないか(例:ロミオとジュリエット)」、「感情的に認められにくいか(例:たった一つの冴えたやり方)」だが(本気にすんなよ)、作られた生命という概念はどちらかといえば前者に抵触するのではないだろうか。
そして「百億の昼と千億の夜」の超越的存在は、用意周到な計画でもって冷徹に我々の宇宙を滅ぼそうとする。宇宙規模の介入が可能な存在による影響は、この物理宇宙で可能な現象である限り無限に増大させる事が出来る。それに抵抗する、絶望的な戦いは現代の日本に蔓延するシニシズム、ペシミズムと実によくシンクロしていると思う。まあ日本には自分で闘おうなんて奴はほとんどいないんじゃないかと思うけど。
「皆無」で想定されている超越的外部は、「フェッセンデンの宇宙」のマッドサイエンティストが最も近いと思う。我々の物理宇宙を癒しに使う連中はあまり趣味がいいとはいえないかもしれないが、我々の尺度で測る事が出来るという点で、まだ人間との共通点を感じさせる。前述したとおり、この宇宙に「外から」干渉してくる存在とは、この物理宇宙での限界に囚われない存在で有り得るのだ。我々人間が理解出来るレベルの「思考」を持っていたり、なんらかの癒しを我々の宇宙から得るような存在である必然性は一つもない。まあそういう奴らである可能性も否定は出来ないが。なにせ、なんでもありなわけだから。
人類の歴史には、先天的な差を社会的な不利益にしないようにしようとする思潮が一方に有ったと思う。その観点から見ると、「宇宙外存在」も「人工生命」も新たなる権力上下関係につながる概念である事は間違いなく、結果悲劇的な想像力に結びつけられがちであると思う。
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