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009 RE:CYBORG

心を横断する奇跡

1.ミステリーと伏線
作品冒頭で主人公は中国で起きた「自爆テロ」の映像を見ながら「聖書風だが聖書にはない言葉」を呟き、六本木の高層ビルで「自爆テロ」を行おうとする。彼の行動は作中のマスメディアによって「狂信的なテロル」として予めフレームアップされており、観客もひとまずそういった視線で彼の行動を捉える事になる。
一方で、石ノ森章太郎の『サイボーグ009』のリメイクという前提で作品世界を捉える観客は、ここで既にいくつかの謎に出くわす。主人公が「テロリスト」になった理由、他のサイボーグ達はどうなったのか、世界は今どういう状況なのか…。これらの大半はイスタンブールの基地で博士によって説明される。
だが、その時までに観客は新たにいくつかの謎に出会っている。グレートブリテンやピュンマが見た神秘的な少女は何者なのか、「彼の声」とは何か、少女を見た二人の行方、チャンチャンコは何を知ったのか、細かいところではグレートブリテンが言う「俺達は何時から正義の味方じゃなくなっちまったんだ」の意味もそうだろう。
サイボーグ達の現況、世界中で続く自爆テロの様子、軍産複合体の暗躍とアメリカ政府の動向、グレートブリテンの言う「正義を見失ってしまっている」というジレンマとその克服等、いずれもセリフや服装の変化等ではっきりと描かれている。いくつか作中では明かされない謎もあるが、大半の謎は作中に答えが提示されている。
さて、この作品における最大の謎は「彼の声」とは何かだろう。この謎は冒頭の主人公が発した謎の言葉で既に始まっており、劇中で常に問題になり続け、その答えはラストシーンで明かされる。「彼の声」については後述する。
この作品は謎を作り出す事で観客を牽引し、その種明かしをする事でカタルシスを与えようとする物語構造をしている。

2.現代人へのメッセージと政治性
主人公は高校生の擬似記憶を持ち、自分にしか見えない彼女を持っている。『東のエデン』で「ニート」を取り扱い、自身もインタビュー等で積極的にメッセージを発信した神山監督が、ここで「実在しない美少女に心の安息を求める青年」に、現代の「長期化した青年期」を生きる人々を意識していると考えるのは不自然な事ではなかろう。
『東のエデン』と本作の最大の違いは、福島の地震を経験しているか否かである。『東のエデン』では「ニート」の社会進出を促していた監督だが、本作では「テロル」という極端な「行動主義」をモチーフに据える事で、「行動すればそれでいいのか」という疑問を投げかけているように見える。監督は、福島の震災と、その後の一連の展開の中に「個別の行動が既存の枠組みに絡め取られていく過程」や「行動が排外主義や攻撃的言動と=になってしまう構造」を見てしまったのかもしれない。
だとすれば、この作品は神山監督の、些か悲痛なメッセージと見る事もできる。では、そのメッセージとは具体的にどのようなものか。

3.彼の声とは何か
ハインリヒの説明によると、「神」とは人間が環境に適応するために発達させた「脳」そのものである。また、「彼の声」は人々をテロに走らせもするが、物語後半の主人公のように暴力から人々を救おうとする原動力ともなる。
結論から言ってしまえば、「彼の声」とは「自己犠牲の精神」である。これは神山監督が描き続けてきたモチーフだ。TVシリーズ「攻殻機動隊」の1と2ではタチコマ達によって、『精霊の守り人』では主人公・バルサやその養父が、『東のエデン』では主人公・滝沢が、「自分を犠牲にして誰かを救おうと」している。
本作のラストシーンでフランソワーズが「天使の化石は自分を犠牲にした人の化石なのだ」といった趣旨の事を言うが、それ故に「天使の化石」は人々に「自己犠牲的行動」を喚起するのである。そして「それぞれの立場からの献身」を模索した結果、ある者はテロルを行い、ある者はそれを止める事になる。主人公は「彼の声」に従う人々の行いが、マスメディアによってフレームアップされる「狂信的な自爆テロ」ではなく「自己犠牲の一つの形」なのだという視点を発見する事で正義の拠り所を取り戻し、「高校生=私人」の服から「サイボーグの制服=正義の味方」に戻る事ができたのである。正義の味方が守るのは、エゴイストでも狂人でもない、世界のために命を投げ出す善意の人々なのである。そしてこの視点を持つ事で、観客も物語冒頭で誘導された視点から解放され、作品を違った視点で見る事ができるようになる。ジェットも、「テロリスト」達も、軍産複合体の長でさえも、悪意や私利私欲からのみ何事かをなしたわけでは無かったのだ、と。

4.自己犠牲と奇跡の世界
物語最後の十数分、核弾頭を破壊し宇宙空間で死んだはずの主人公やジェットは、唐突に見知らぬ街に集まっている。そこでは、人は皆水の上を歩く事ができる。この「水の上を歩く」は、イエスが起こしたとされる奇跡の内の一つである。彼らは皆「まるでイエスのように」奇跡を体現している。要するに、そこは人々が「イエスのように」いたわりあい、各々の為に自己犠牲を厭わない、奇跡のような世界なのである。
上記のシーンは(恐らくは意図的に)シークエンス的に唐突な繋げ方をされている。その事自体が観客に違和感を産み出し、「ご都合主義である」事を強く意識させる。そう、全ては作り話に過ぎず、我々はそこで描かれる世界に住む事は決して叶わない。だが思い描く事はできる。我々は「脳=神」と共に生きているのだから。

5.補足
作中では、グレートブリテンとピュンマのその後、彼らが見た少女とは何者なのか、の二点が明確に説明されていない。サイボーグの二人がどうなったかは、少女の存在を解析する上で重要だと思うのだが、無いのだからしょうがない。
「彼の声」と少女は、ジェットが上官を殺し、ペンタゴンで暴れまわった時の描写からも関係がある事は明らかなのだが、あのシーンの少女は=「彼の声」なのだろうか?それとも少女は「彼の声」に従ったジェットを祝福しているのだろうか?恐らく両者は同じもので、天使の少女を見た者は、天使の化石を見た者と同様に、なんらかの行動を起こす事になるのだろう。グレートブリテンとピュンマの失踪はその意味では完全な謎とまでは言えない。
破壊の限りを尽くしたジェットの恍惚とした表情は、バトーを救おうと特殊部隊「海坊主」と戦った時の事を回想したタチコマ達の表現「えもいわれぬ法悦感」を思い出させる。タチコマ達はバトーを助けるために特殊部隊の兵士に自爆特攻を仕掛け、ジェットは「悪を倒す」ために暴走する。タチコマ達が「バトーさんを守れ」と叫び、ジェットが「敵か味方か」と問うた時点で彼らの「正義」が帰結するところは明らかだったわけだ。
本人にしか見えない存在=「脳内の神」がこの作品の重要なモチーフになっている。この「脳内の神」は、世界中の脳を横断して歩いている。それはジェットを暴走せしめ、ジョーに安らぎを与え、恐らくは世界に核を降らせてもいる。
「脳内の神」に突き動かされる人々を見ていると、まるで脳それ自体が社会の破滅を望んでいるかのように思われてくる。「脳内の神」はもう何千年も我々に原罪を償う事を求め続けている。
皆が自分の思う正義を衝突させ続ける、戦いの絶えざる世界。この作品はそのように現代世界を描き出している。我々には「それらの全てを背負い、守ろうとする」サイボーグ戦士達はついていない。サイボーグ戦士達は、2ndGIGにおけるクゼのように、上部構造として人々の啓蒙を図ろうとするが、この「上部構造による下部構造への働きかけ」も神山監督の作品には頻出する。それは、映像というメディアを通して視聴者へ働きかけるという、映像監督の在り方を正確になぞっている。
この、啓蒙という「傲慢な」考え方に対する違和感も、2ndGIGでは明確に描き出されていた。草薙素子がりんご=知恵の実を、なんだかよくわからない理由でかじらない事で、クゼのやり方への明確な違和感の表明を行なっている。だが、本作ではジョーを「やや思い込みが激しい青年」のように描き(脳内彼女やヒルズへのテロ未遂に象徴される)、宇宙空間での大仰な台詞回しによって観客に違和感を抱かせようとするにとどまっている。神山は今のところTVシリーズ程には、劇場映画の作劇が上手くないようだ。
とまれ、映像がいくら啓蒙的に振舞おうと、一個人に過ぎない我々は状況に対して余りに無力だ。私がこの映画を「些か悲痛なメッセージ」として受け取った理由も、表現がそうした無力感と表裏になっていると感じたからだ。
この映画は説教臭く、暗い。
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