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伏 鉄砲娘の捕物帳

絆をめぐる物語

1.語っているのは誰か
眼鏡の少女による「物語には因果があり、因は始まりであり原因、果は終わりであり結果である」といった内容のモノローグでこの物語は始まる。そして、ラストシーンでは同じ語り手が、書き進めてきた物語を締めくくる内容のモノローグで終わる。その意味で、この物語の時系列は最初と最後が同じ時間であり、モノローグ終了と共に物語世界における最も過去の時点に、ワンクッション置く形で導かれる。
冒頭で出会うこのモノローグは、一つには後述する虚構と現実との関連において処理されるべき要素である。が、このモノローグの効果はそれだけにとどまらない。同時に観客は「これから語られる物語は全てこのモノローグの語り手によって創作されたか、少なくともそのフィルターを通したものなのではないか」という可能性を頭によぎらせもするからである。
作中の眼鏡の少女がこのモノローグの主である事は、物語が進んでいけば自然と判明する。さて、この娘を画面の端々に登場させる事でこの作品は作中の大半のエピソードについて「戯作の物語として書く」事を可能にしている。だが、彼女が決して知りえない情報もある。城中での信乃と徳川将軍との対決シーンや、序中盤の城内の描写等がそうである。浜路の友人であるという設定から、浜路にほとんどの出来事について聞く事ができるが、少なくとも本編の全てを彼女の脳内で再構成する事は理論上不可能という事になる。この時点で、この物語が「少女による事実の記録である」という可能性は消えた。後は「全てが彼女の創作である」という可能性だが、これは理論上可能性を全否定する事は困難であろう。しかし、筆者はそうではないと考える。何故か。

2.虚構と現実
信乃が伏である事が露見した時、深川座の仲間の一人が「諦めなければ騙され続けてやったのに」と泣きながら呟く。この友人の友情に対して、信乃は幕府の雑兵を殺戮する事をもって応える。歌舞伎役者という虚構の役柄を演じる信乃は、実は伏であるという現実を覆い隠すための虚構に過ぎないとする事で、この作品は明確に作中の「現実」を伏として大立ち回りを演じる信乃に割り振っている。
信乃は浜路に服を買い与えた直後のお歯黒ドブでも、華やかな吉原の醜い裏面を冷笑する。芝の神社では浜路の恋心に対して現実を突きつけ、そして浜路を招待した芝での興行では、作品世界における「歴史の真実」を舞台上で披露して見せさえする。
芝の興行における「八犬伝」は、直前に「贋作」である事が明かされている。その「贋作」が実は歴史上の真実・「現実」であるという構造は、作品への理解を錯綜させる元になるが、本作はそのような混乱を「八犬伝」の作者である馬琴自身に否定させている。馬琴は言う。「虚構は虚構に過ぎん」。伏を主人公としてピックアップしたいという戯作者の欲望は作中ではあくまで「虚構」として整理されてしまう。そのような前提を踏まえた時、信乃の徳川将軍に対する台詞、「まがいものでも真剣に生きてりゃ本物なんだよ」はどう解釈すべきか。
歌舞伎には「趣向」という概念があり、登場人物や一部の設定だけを取り出して、全く別の物語に再構成してしまう事が歌舞伎という舞台芸能では頻繁に行われている。そこではオリジナル等という概念は存在しようがない。そうした歌舞伎の世界で「人間だと偽って」生きる信乃にとって、前述の発言は必然である。役者であり人間であるという二重の「虚構」と、伏であるという「現実」を重ね合わせながら生きているのが信乃だからである。故に馬琴が眼鏡の少女に対して「虚構と現実を行き来するのは苦しいぞ」と言うシーンは、信乃という存在に対する説明としても理解する事ができる。「八犬伝」中では信乃の愛刀である村雨が、絵画=虚構の中から出てくるのも、そうした信乃の存在と対応している。
信乃は虚構と現実を往還する存在なのである。そして、この作品は「虚構」と「現実」を「擬似的に」切り分けて見せながら、馬琴の言明などによって「虚構と現実の境は自明か」といった類の古典的命題については周到に回避している。そうした作品である以上、作品世界内の「現実」に属する眼鏡の少女は、この作品によって描かれた物語とは別の「虚構」を作中の世界で書き上げたと考えるのが妥当ではないだろうか。

3.模造都市・江戸
虚構と現実の境目という視点から見た場合、前述したモノローグの他に、冒頭の狩りのシーンにおける「遠眼鏡」の存在と、浜路の持つ「銃に見えない銃」の二点が観客を「虚構」へと誘う。この導入は重要である。遠眼鏡による浜路の視界によって、観客は即座に作品世界を「和風ファンタジー」として理解する。
浜路が江戸に出てきた直後の描写も観客を作品世界へ誘おうとする配慮に満ちている。まずはカメラで江戸城をグルリと一周し、ファンタジー世界である事を再度確認し、その後に庶民の生活空間を描き出して見せる。浜路の「田舎娘」という江戸における「よそ者」であるという設定と、観客の「作品世界」に対する「よそ者」であるという立ち位置が、そこでは重ね合わされる。また、浜路が出会う江戸の魚売りやびいどろ売り等を通して、観客はその空間における暮らしを漠然と想像するてがかりを得る。この辺りから作品は徐々に作品世界を「虚構」であると突き放す事をやめ、作品世界内に立体的な現実味を帯びさせ始める。全てが絵であるアニメーションにおいて、観客を作品世界に埋没させようとする時に、どのような方法が採られるのか。本作では江戸時代の模倣によって「リアリティ」の獲得が目指される。
軍事都市であり、水運都市でもあった江戸は、太鼓橋という橋の真ん中が高く盛り上がった橋が掛けられていた。これは、船が橋の下を通過できるようにするという水運上の理由と、車両が容易に橋を通過できないようにするという軍事上の理由による。本作でも太鼓橋がワンカット出てくる。また、道節と浜路が江戸見物をしたルートは男湯→雷門(浅草)→吉原(恐らくは日本橋ではなく、浅草近くの新吉原であろう)である。実在する江戸の地図を参照しても、無理のないルートである事がわかる。
だが、この江戸は当然ただの「リアルな江戸の模倣」ではない。例えば江戸時代の銭湯は基本混浴であって、男湯で浜路が恥ずかしがる理由は「現実の」江戸にはないだろう。また言語も、陸奥から出てきたばかりで文字の読み書きもできない浜路と江戸の人間では会話は勿論意思の疎通さえ困難だと考えるのが普通だろう。そもそも、浜路が無意識の前提としている「女性性」は、江戸時代のものというより、近代的、現代的なものである。
この作品は、見てきたとおり「虚構」と「現実」をかなりタイトなバランスの上に両立させようとしている。このアクロバティックな作業を可能にしているのが、地域と時代に制約されている我々の文化である事は言うまでもない。ではそのようにして危うい橋を一応渡り終えた観客が目にするのは何か。この「虚実入り混じる作品世界」にはどのような物語が盛られているだろうか。

4.生成される思春期の少女
浜路の体つきは、序盤から明確に丸みを帯びた、女性のものとして描かれている。仕草も手を前で組むなど、現代の我々にとって女性的に見える仕草をしている事が多い。にも関わらず、浜路はしばしば男性と間違われる。同性の眼鏡少女さえ初めは男性だと思い、瓦版に描いていた程である。
浜路の性別に関する語彙は、作品に頻出する。また、衣装や髪型の変化などによって浜路は、ジェンダーを変化させていく。江戸に来たばかりの浜路は、伏のさらし首のシーンで坊主呼ばわりされる。続いて信乃に男と間違われ、「頬が赤い」から女か等と言われたりする。吉原へ潜入するために道節に男装をさせられた後に、信乃に着物を買ってもらい、ここで初めて信乃に女性として認識される事になる。このシーンが浜路を一切性的な対象として見ない道節にもらった男装と対照をなしているのは言うまでもない。
吉原は花が多く、女体を模した巨大な像が有るなど、性的な形象に満ち満ちている。信乃によって初めて女性となった浜路は、その後花魁に化けた伏を追いながら周囲から隔絶された黒い内面世界の中に性的なイメージをフラッシュバックさせる。それが思春期の少女が性の生々しさに触れた時の不安である事は、お歯黒ドブでの信乃の言葉に対する反応や追い詰めた女伏の「女になるのが怖いんでしょう」という言葉からも明らかである。
芝の歌舞伎で信乃に神社へ誘われた浜路は、恋する少女そのものである。結果的に歌舞伎の舞台で信乃が見せたメッセージは、そうした彼女の恋心とは全く無関係なものだったわけだが、これは浜路が勘違いをしたというよりも信乃が不器用すぎたのであって、直後に見せる浜路の涙は失恋によるばかりでなく、信乃が取った行動の理不尽さに対しても流されるべきであろう。虚実を行き来する信乃にしては、あまりに稚拙なカミングアウトであると言うのは、些か浜路の心情に寄り添い過ぎであろうか。
江戸城の屋根の上で、ついに二人は結ばれるが、その時猟師としては視界がふさがるため邪魔になるだろう髪留めがほどけ、浜路は一人の女性として信乃と観客の前に姿を現す。物語冒頭では少年のようであった浜路が女性化していくのに対し、信乃は冒頭では女物の着物をまとい、歌舞伎の場では女役だが、江戸城では雄の犬になっている。これは「浜路が信乃を落とす」という形で両者の恋愛が推移するからではなかろうか。女役・信乃を見染めた男役・浜路が口説くという構図は現代の恋愛観からすればさして不自然ではないだろうが、それでも浜路が信乃に初めて魅力を感じるシーンは観客にとって倒錯的でありうる。
浜路が信乃に好意を持つ理由は「毛並みが綺麗だ」という視覚的なものによる。女性が視覚的な要素によって男性を欲望しないわけではないのだが、近代以降そうした視線はもっぱら男性的なものとして扱われてきた。この作品はそうした視線を男性から女性に取り戻す試みとして見る事も一応不可能ではない。浜路は信乃を見初める時点では「ジェンダー的に女になっていない」わけだから、セクシュアリティが女性の個体の、男性に対するフェティシズムがより露骨に描き出されているといえる。浜路にしてみれば素直に感情を吐露しただけの表現であるからこそ、ジェンダーとセクシュアリティの問題が表現として重ね合わされる時、そこに観客は自身の価値観の特殊性を見出す。同時に男性でありながら女性として男性の魅力を口にする、女性でありながら男性が女性にするように男性の魅力を口にする、といった倒錯的体験が可能になる。しかも(正体が分かるのは後の事ではあるが)相手は江戸が誇る最高の美男子なのだ。浜路の視点から見ればフェティシズムを掻き立てられない方がどうかしている。
が、それにしては信乃の描写は控え目である。それに対して信乃を欲望する浜路の描写がしっかりと描かれている。あくまでこの物語は浜路の変化を描く事に力点が置かれている。
なにはともあれ最終的に男役の女・浜路と女役の雄犬・信乃は「八犬伝」の伏姫と八房の逢瀬をなぞり、一時の事とはいえ結ばれる。しかしそこで物語は完結しない。少女の性や恋愛はこの物語を牽引する横糸にすぎない。

5.つながる事、与える事
冒頭の狩りのシーンで白い犬と「つながった」浜路は、銃の一撃でこれを仕留めるが、犬が流した涙にたじろぐ。直後に浜路の祖父が死んだ直後であることが明かされる事で、このシーンの一応の説明がなされるが、その後もこのエピソードは作中で度々別の形で姿を見せ続ける事になる。何故なら、それがこの作品を貫くテーマそのものだからである。
伏6体のさらし首を見た浜路は何かを言いかけて逃げ去るが、そこで言おうとした事は後に明かされる。「もらったらお返しをしなければならないとじっちゃんが言ってた」。白い犬の涙にたじろぐ浜路は、犬の命を奪った事を実感し、代わりに何かを与える術を知らない。
吉原で女の伏と「つながった」浜路は手傷を負わせるが、トドメをさす事ができない。浜路が「撃てない猟師」になったのはこの瞬間であろう。女の伏は命の代わりに手紙を芝の親兵衛に渡すよう頼むが、伏のさらし首の時点で親兵衛が死んでいる事は、観客に対しては明示されている。手紙は出す宛のない手紙であった。
女伏が親兵衛の親であるという設定によって、浜路が信乃の子を孕むという選択肢が暗に否定されているようにも思える。浜路と信乃の関係はあくまでプラトニックなままのようである。信乃が処刑されるのは城の屋根から一年半後だから、その間に子供を作る事も物語上は不可能ではないはずだ。だがそうはなっていない。何故か。
字を読めない浜路は馬琴宅で眼鏡少女に手紙の内容を読んでもらい、それが信乃に対して自分が贈るべきメッセージでもありうる事を発見する。そして、それは信乃を生かす事につながるため、浜路が殺した犬に対しての「お返し」ともなり、浜路の中で両者の帳尻が合うのである。そして、浜路が手紙という形で信乃に送ったメッセージの「お返し」はやはり手紙でなければならなかった。
この作品では「つながる」描写と「与える」描写が頻出する。
「つながる」描写は上述したものの他に、芝の興業がはけた後、眼鏡少女が浜路に恋愛の気配を察知する場面でも使われている。この作品では、基本的に特定の人物の周囲に黒ベタをかぶせて視覚的に孤立させる事で個人の内面を描写するが、この表現は他に江戸に出てきた直後の浜路、さらし首を見た浜路、吉原で伏を追う浜路、人間の魂を求めて苦しむ信乃に使用されている。他の箇所では孤独を描くために使われる表現が、ここでは少女達の共感を描くために使用されている。
登場人物同士が共感するシーンは、他に浜路が馬琴に「字が読めないのと目が見えないので似た者同士」といった事を言う場面でも見られる。この会話によって、馬琴の家に笑いが満ちる。「つながる」とは共感を意味してもいるのである。冒頭の白犬の涙にたじろいだ浜路は、犬の死と祖父の死を重ね合わせる事で犬に対して共感したという側面は見過ごされるべきではないだろう。女伏を撃てず、「撃てない猟師」になった理由も女伏に共感=感情移入したからである。これは信乃の「まがいものでも真剣に生きてりゃ本物」という言葉や、その後の役人の「生まれは関係ない」といった(いささか安っぽい)平等主義にもつながっていく。命はみな平等、共感できない生命は存在しないというわけだ。
獲物に共感し、命を奪う事ができなくなった浜路は代わりに信乃を生かす、即ち命を与える事で「銃で撃つ」以外の他者とのつながり方を手にする。浜路にとって「与える」事、「もらう」事は切実な問題なのである。女伏を殺した報奨金を分割にしてもらう理由は、直接には兄を気遣っての事であり、役人は「倹約の心得か」と言うがこの役人の解釈が意図的なミスリードである事は明白だろう。既に「撃てない猟師」になっている浜路にとって、命の代償に受け取ったと認識されている金は、単純に価値を肯定できるものではありえない。だからその金で食うどじょう鍋も旨くないのである。
信乃もまた、徳川将軍に命を与えている。一人の人間として内心を吐露した将軍の命を、信乃は助ける。将軍はその後「赤ん坊のように」眠り、信乃に遅れて浜路が現れた時は「子供のように」泣いている。そして最後には「酒を飲む大人」として描かれる。将軍は信乃に命を救われる事で生まれ変わり、村雨によって火事を消し止める恵みの雨を降らせる。
浜路も、信乃も、頑固な馬琴やその一家も、純血である事をアイデンティティーとし開国を恐れる将軍でさえも、他者との関わりによる変化から免れる事はない。この物語は、つながりあい、与えあう事で登場人物達が変化していく様を描いた、絆をめぐる物語である。冥土の物語と、この作品が「手紙の返事をもらった」で締めくくられる理由もそこにある。

補足
前田愛は「天保改革における作者と書肆」の中で馬琴を否定的に描き出している。私信の中で幕府の「武芸奨励」に感激し、「風俗匡正」をよしとし、春水の筆禍事件を嘲笑う馬琴の感覚は、確かに「戯作者のものではない」だろう。前田は他の文章でも馬琴の保守的な側面を批判している。「八犬伝の世界~夜のアレゴリィ~」では、「八犬伝」を前半後半に分け、前半部は人面獣心の妖怪達が闊歩する夜の世界に、犬士達が孤独な戦いを挑むものであったのに対し、後半部では作者の理想や政治理念が前面に押し出された結果、時代錯誤的なアナクロニズムに堕していく様が論じられ、むしろ悪の世界を描き続けた前半部にこそ当時の現実に届きうる力があったのではないかとしている。
馬琴は体制順応的な人間であって、勧善懲悪は当時の幕府の検閲方針に完全に一致するものであった。その意味で「八犬伝」を「伏=弱者のための物語」にしたかったとのみ語る伏の馬琴は、過剰に美化された後世の虚構に過ぎない。「虚構は虚構に過ぎない」と自らの作品を断じた馬琴は、正に虚構の権化のような存在なのであった。

作品の第一印象は「女性のための作品」だった。決してつまらなかったわけではないが、「女性に媚びる」描写が鼻についたと言ってもいい。だが、女性を欲望せずに、女性とその恋愛を見る事ができる作品だとも思えた。女性向けの意匠を凝らしてはいるが、それも副次的な要素に過ぎないだろう。性を扱いながら性愛を意識する事なく純愛を楽しむ事ができるという点がこの映画の特徴だと思う。その意味で浜路の造形は優れている。

歌舞伎という大衆芸術と信乃の「真剣に生きてりゃ本物」が重ね合わされている事は既に書いたが、この事は信乃の言葉が「表現」にまで及んでいる事を示唆している。要するに本物か偽物かではなく、真剣に作っているか、きちんとシェアされているかが問題なのだと、そこではなるのだろう。その後駄目押しで「生まれは関係ない」とごつい役人の発言によって平等主義が描かれるが、これは蛇足に過ぎる。信乃の言葉だけでも歯が浮いているというのに。好意的に解釈するならば、児童ポルノ法のような表現規制に対する抵抗として読む事は可能だろう。だが、字義通りにとった場合、これ程陳腐な表現もあるまい。
どう解釈するにせよ、唐突に現れた安っぽい平等主義としか見えないものが、正にその通りのものでしかないのなら、それは失笑しか買わないだろう(事実、映画館では苦笑を耳にした)。
安っぽい平等主義といえば、浜路の祖父はどうやって「お返し」をしていたのか。浜路はその事を知っていなければならないはずだが、そういった描写は見られない。また、信乃を生かす事で帳尻を合わせた浜路だが、これは浜路がそう思っているに過ぎず、白犬が(死の概念があるか、言語能力があるかは分からないが)浜路を許す理由は何もない。この話がどこか釈然としないのは、帳尻が合っていないからだ。
『EDEN』という漫画にこういう台詞がある。「「弱肉強食」と「生存競争」によって地球は生命の豊かな星になっているのです。「命の平等」を唱えたり自然を賛美するのは恵まれた環境にいる一部の人間だけです」。我々が飯を食わない日は一日もなく、我々の食う飯とは自分以外の生命に他ならない。浜路はこの問題にどのような答えを出すのだろうか?その答えを見てみたく思った。
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