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『ジェノサイバー 虚界の魔獣』 参

3話のまとめ
☛引き続き肉体の精神に対する優位が描かれた。今度はジェノサイバーの肉体を奪ったヴァジュラノイドが、肉体を戦艦そのものにまで拡張した。それによって軍医は精神を崩壊させる。

・ジェノサイバーは一話の少年や、軍医を守るために戦っている→勧善懲悪
・一話にて墜落させた旅客機に、軍医の娘ローラが乗っていたようである。軍医はジェノサイバーに変身するエレンを見て、エレンがローラと違う存在である事や、娘ローラの死を突きつけられる。→精神に対する肉体の優位性

この世は地獄
・エレンは誰かを守る時はジェノサイバーに変身しない。
・子ども達の怨霊と、科学者の狂気が戦艦を地獄に変える
・一話では少年を死においやった魔都香港、二話で唐突に殺される子供達
・三話のラストでジェノサイバーを天使であるとし、この地獄=地上から救ってくれと叫ぶ狂った軍医
☛基本的にジェノサイバーは破壊する存在である。三話で超能力を操り、軍医を守ったのはあくまでエレンであって、ジェノサイバーではない。軍医によれば、変身後=ジェノサイバーが天使なのであるから、この世という地獄にもたらされる救いは破壊である事になる。

『ジェノサイバー 虚界の魔獣』 弐

2話のまとめ

1.可憐な少女に宿る悪魔的暴力
・エレンに死んだ娘を重ねる軍医
・普通の少女であるエレンだが、肉体は機械製のサイボーグである。
・錯乱した船員が叫ぶ「船にいる悪魔」とは、ヴァジュラノイドとジェノサイバー双方の事だろう。
☛一話から見られた純真無垢な少女としてのエレンと、それに似つかわしくない変身後の超越的暴力の対比がこの話でも見られる。暴力と破壊を引き立てるために、エレンは過剰に可憐な少女でなければならない。美しい精神とグロテスクな肉体破壊描写は相互補完的である。

2.子供たちの幽霊
・新要素である
・殺された子供達が、自分達を殺した軍隊に復讐している。
・エレンは幽霊に導かれ、復讐に加担する事になる
☛幽霊達は必ずしも純粋無垢な存在ではなく、怨念を晴らすために純粋なエレンを利用する怨霊である。彼らは被害者という側面も持つはずだが、この作品では戦いを誘発する悪意ある存在である。彼らに関する描写によって、エレンが一話で見た少年の霊魂は、エレンの妄想ではなかった事が明らかになる。今のところ純粋にエレンの味方をしているのは、一話の少年と、娘のように思う軍医だけだが、軍医はエレンがジェノサイバーである事を知らない。

3.科学と科学者に対する不審
・自身の体面を他人の生命より優先させる科学者
・暴走し、制御できないヴァジュラノイド
・ジェノサイバー自体が暴走した兵器である
☛これも一話から見られた要素。コンピューターにつながれ、機械の殻に包まれたヴァジュラノイドは科学技術によって制御されるべきヴァジュラパワーそのものである。しかし、肉体に宿る内宇宙の力、ヴァジュラはその制御を容易くねじ伏せる。

4.肉体に宿る可能性
☛一話ではダイアナとエレンという「精神と肉体の調和」によって制御されるべきものとして構想されたヴァジュラは、両者の不和によって暴走した。二話では、科学技術によって制御する事が目指されたヴァジュラが、独断で暴走を始める。両者は共に悪魔的な存在として描かれている。ジェノサイバーは犯罪と暴力にまみれ、純粋な心を持った少年を苦しめ殺す魔都・香港を焼き尽くし消滅させ、また理由なく殺された無辜の民の怨嗟の声を受け、彼らを殺した軍隊を壊滅させるだろう。ジェノサイバーは勧善懲悪の物語である。

『ジェノサイバー 虚界の魔獣』 壱

1話のまとめ

自己目的化した破滅

1.魔都香港
・犯罪を犯す少年達
・怪しげな研究をするマッドサイエンティスト
・警察を容易く殺してしまうケネス
・兵器の実験場として、設定上魔都のイメージが要請されている
・毒々しい色使いの香港の町並み
・少年の死を知り、香港を消滅させた後の単色の世界
☛破壊以前の猥雑で複数性のある生の世界と、破壊後の単色でエレン個人しか存在しない世界が対比される。

2.肉体の精神に対する優位性とヴァジュラ
・ダイアナは肉体が弱く、エレンは知能が幼児並みであるという設定
・エレンに嫉妬し、殺そうとするダイアナだが、より強大なエレンの力に敗れる
・ダイアナの「自分は付属品」という劣等感
・マッドサイエンティストはエレンとダイアナを補完し合うものとして見ている一方、両者の融合による超越的な力を求めている
・ダイアナを圧倒し、肉体を奪うエレン
・ヴァジュラは肉体に移る影=内宇宙から来る謎のエネルギーである
☛肉体を司るエレンの力は、全編においてダイアナの力に優越している。一旦は肉体を破壊する事に成功したダイアナだが、結局エレンの肉体より発生する「ヴァジュラ」の力によってエレンに肉体を奪われてしまう。3章でも触れるが、刑事が殺される描写や、サイボーグ達のセリフにも肉体の優位性を見る事ができる。

3.滅びのイメージと美
・グロテスクな肉体描写
・過剰に肉体を肥大化させた(炎に包まれているのに頓着しない特別な肉体)サイボーグ達の価値観→焼き払われる香港と超越的な力であるジェノサイバーを美しいと形容する→ジェノサイバーを殺したいという欲望→サイボーグ達は巨大な破壊と、それを可能にする超越的な力に美を見出している
・身体を切り裂かれる刑事→意識はまだまともである事で、肉体に行使された暴力に対して無力な精神と図式化されている→グロテスクな描写に対する映像的嗜好
・戦闘を終えたエレンは無垢な少年の幻影を見るが、少年の肉体は破壊された後である→肉体はジェノサイバーVS少年の死体、精神はエレンVS少年という図式になっている。
・ダイアナの「身体の弱さ」という設定を補うための機械の身体が、エレンという肉体「肉体が強く精神が弱い」存在に奪われる事で、肉体性だけが過剰に肥大化したジェノサイバーが誕生する。
☛ ジェノサイバーに見られる肉体や都市の破壊は、精神や意識を超越するが故に美しい。そして過剰な肉体によってもたらされる暴力や破壊が大きければ大きい程、精神の弱さと儚さが際立つ。この作品は、醜悪な身体描写やそれに対するフェチズムと物理現実の前に無力な精神を対比させる事で、グロテスクな肉体に宿る美と、その肉体の前に敗北を余儀なくされる精神の美を共に描いている。その意味で、この作品における暴力や破壊は表現の「手段」ではなく「目的」である。

伏 鉄砲娘の捕物帳

絆をめぐる物語

1.語っているのは誰か
眼鏡の少女による「物語には因果があり、因は始まりであり原因、果は終わりであり結果である」といった内容のモノローグでこの物語は始まる。そして、ラストシーンでは同じ語り手が、書き進めてきた物語を締めくくる内容のモノローグで終わる。その意味で、この物語の時系列は最初と最後が同じ時間であり、モノローグ終了と共に物語世界における最も過去の時点に、ワンクッション置く形で導かれる。
冒頭で出会うこのモノローグは、一つには後述する虚構と現実との関連において処理されるべき要素である。が、このモノローグの効果はそれだけにとどまらない。同時に観客は「これから語られる物語は全てこのモノローグの語り手によって創作されたか、少なくともそのフィルターを通したものなのではないか」という可能性を頭によぎらせもするからである。
作中の眼鏡の少女がこのモノローグの主である事は、物語が進んでいけば自然と判明する。さて、この娘を画面の端々に登場させる事でこの作品は作中の大半のエピソードについて「戯作の物語として書く」事を可能にしている。だが、彼女が決して知りえない情報もある。城中での信乃と徳川将軍との対決シーンや、序中盤の城内の描写等がそうである。浜路の友人であるという設定から、浜路にほとんどの出来事について聞く事ができるが、少なくとも本編の全てを彼女の脳内で再構成する事は理論上不可能という事になる。この時点で、この物語が「少女による事実の記録である」という可能性は消えた。後は「全てが彼女の創作である」という可能性だが、これは理論上可能性を全否定する事は困難であろう。しかし、筆者はそうではないと考える。何故か。

2.虚構と現実
信乃が伏である事が露見した時、深川座の仲間の一人が「諦めなければ騙され続けてやったのに」と泣きながら呟く。この友人の友情に対して、信乃は幕府の雑兵を殺戮する事をもって応える。歌舞伎役者という虚構の役柄を演じる信乃は、実は伏であるという現実を覆い隠すための虚構に過ぎないとする事で、この作品は明確に作中の「現実」を伏として大立ち回りを演じる信乃に割り振っている。
信乃は浜路に服を買い与えた直後のお歯黒ドブでも、華やかな吉原の醜い裏面を冷笑する。芝の神社では浜路の恋心に対して現実を突きつけ、そして浜路を招待した芝での興行では、作品世界における「歴史の真実」を舞台上で披露して見せさえする。
芝の興行における「八犬伝」は、直前に「贋作」である事が明かされている。その「贋作」が実は歴史上の真実・「現実」であるという構造は、作品への理解を錯綜させる元になるが、本作はそのような混乱を「八犬伝」の作者である馬琴自身に否定させている。馬琴は言う。「虚構は虚構に過ぎん」。伏を主人公としてピックアップしたいという戯作者の欲望は作中ではあくまで「虚構」として整理されてしまう。そのような前提を踏まえた時、信乃の徳川将軍に対する台詞、「まがいものでも真剣に生きてりゃ本物なんだよ」はどう解釈すべきか。
歌舞伎には「趣向」という概念があり、登場人物や一部の設定だけを取り出して、全く別の物語に再構成してしまう事が歌舞伎という舞台芸能では頻繁に行われている。そこではオリジナル等という概念は存在しようがない。そうした歌舞伎の世界で「人間だと偽って」生きる信乃にとって、前述の発言は必然である。役者であり人間であるという二重の「虚構」と、伏であるという「現実」を重ね合わせながら生きているのが信乃だからである。故に馬琴が眼鏡の少女に対して「虚構と現実を行き来するのは苦しいぞ」と言うシーンは、信乃という存在に対する説明としても理解する事ができる。「八犬伝」中では信乃の愛刀である村雨が、絵画=虚構の中から出てくるのも、そうした信乃の存在と対応している。
信乃は虚構と現実を往還する存在なのである。そして、この作品は「虚構」と「現実」を「擬似的に」切り分けて見せながら、馬琴の言明などによって「虚構と現実の境は自明か」といった類の古典的命題については周到に回避している。そうした作品である以上、作品世界内の「現実」に属する眼鏡の少女は、この作品によって描かれた物語とは別の「虚構」を作中の世界で書き上げたと考えるのが妥当ではないだろうか。

3.模造都市・江戸
虚構と現実の境目という視点から見た場合、前述したモノローグの他に、冒頭の狩りのシーンにおける「遠眼鏡」の存在と、浜路の持つ「銃に見えない銃」の二点が観客を「虚構」へと誘う。この導入は重要である。遠眼鏡による浜路の視界によって、観客は即座に作品世界を「和風ファンタジー」として理解する。
浜路が江戸に出てきた直後の描写も観客を作品世界へ誘おうとする配慮に満ちている。まずはカメラで江戸城をグルリと一周し、ファンタジー世界である事を再度確認し、その後に庶民の生活空間を描き出して見せる。浜路の「田舎娘」という江戸における「よそ者」であるという設定と、観客の「作品世界」に対する「よそ者」であるという立ち位置が、そこでは重ね合わされる。また、浜路が出会う江戸の魚売りやびいどろ売り等を通して、観客はその空間における暮らしを漠然と想像するてがかりを得る。この辺りから作品は徐々に作品世界を「虚構」であると突き放す事をやめ、作品世界内に立体的な現実味を帯びさせ始める。全てが絵であるアニメーションにおいて、観客を作品世界に埋没させようとする時に、どのような方法が採られるのか。本作では江戸時代の模倣によって「リアリティ」の獲得が目指される。
軍事都市であり、水運都市でもあった江戸は、太鼓橋という橋の真ん中が高く盛り上がった橋が掛けられていた。これは、船が橋の下を通過できるようにするという水運上の理由と、車両が容易に橋を通過できないようにするという軍事上の理由による。本作でも太鼓橋がワンカット出てくる。また、道節と浜路が江戸見物をしたルートは男湯→雷門(浅草)→吉原(恐らくは日本橋ではなく、浅草近くの新吉原であろう)である。実在する江戸の地図を参照しても、無理のないルートである事がわかる。
だが、この江戸は当然ただの「リアルな江戸の模倣」ではない。例えば江戸時代の銭湯は基本混浴であって、男湯で浜路が恥ずかしがる理由は「現実の」江戸にはないだろう。また言語も、陸奥から出てきたばかりで文字の読み書きもできない浜路と江戸の人間では会話は勿論意思の疎通さえ困難だと考えるのが普通だろう。そもそも、浜路が無意識の前提としている「女性性」は、江戸時代のものというより、近代的、現代的なものである。
この作品は、見てきたとおり「虚構」と「現実」をかなりタイトなバランスの上に両立させようとしている。このアクロバティックな作業を可能にしているのが、地域と時代に制約されている我々の文化である事は言うまでもない。ではそのようにして危うい橋を一応渡り終えた観客が目にするのは何か。この「虚実入り混じる作品世界」にはどのような物語が盛られているだろうか。

4.生成される思春期の少女
浜路の体つきは、序盤から明確に丸みを帯びた、女性のものとして描かれている。仕草も手を前で組むなど、現代の我々にとって女性的に見える仕草をしている事が多い。にも関わらず、浜路はしばしば男性と間違われる。同性の眼鏡少女さえ初めは男性だと思い、瓦版に描いていた程である。
浜路の性別に関する語彙は、作品に頻出する。また、衣装や髪型の変化などによって浜路は、ジェンダーを変化させていく。江戸に来たばかりの浜路は、伏のさらし首のシーンで坊主呼ばわりされる。続いて信乃に男と間違われ、「頬が赤い」から女か等と言われたりする。吉原へ潜入するために道節に男装をさせられた後に、信乃に着物を買ってもらい、ここで初めて信乃に女性として認識される事になる。このシーンが浜路を一切性的な対象として見ない道節にもらった男装と対照をなしているのは言うまでもない。
吉原は花が多く、女体を模した巨大な像が有るなど、性的な形象に満ち満ちている。信乃によって初めて女性となった浜路は、その後花魁に化けた伏を追いながら周囲から隔絶された黒い内面世界の中に性的なイメージをフラッシュバックさせる。それが思春期の少女が性の生々しさに触れた時の不安である事は、お歯黒ドブでの信乃の言葉に対する反応や追い詰めた女伏の「女になるのが怖いんでしょう」という言葉からも明らかである。
芝の歌舞伎で信乃に神社へ誘われた浜路は、恋する少女そのものである。結果的に歌舞伎の舞台で信乃が見せたメッセージは、そうした彼女の恋心とは全く無関係なものだったわけだが、これは浜路が勘違いをしたというよりも信乃が不器用すぎたのであって、直後に見せる浜路の涙は失恋によるばかりでなく、信乃が取った行動の理不尽さに対しても流されるべきであろう。虚実を行き来する信乃にしては、あまりに稚拙なカミングアウトであると言うのは、些か浜路の心情に寄り添い過ぎであろうか。
江戸城の屋根の上で、ついに二人は結ばれるが、その時猟師としては視界がふさがるため邪魔になるだろう髪留めがほどけ、浜路は一人の女性として信乃と観客の前に姿を現す。物語冒頭では少年のようであった浜路が女性化していくのに対し、信乃は冒頭では女物の着物をまとい、歌舞伎の場では女役だが、江戸城では雄の犬になっている。これは「浜路が信乃を落とす」という形で両者の恋愛が推移するからではなかろうか。女役・信乃を見染めた男役・浜路が口説くという構図は現代の恋愛観からすればさして不自然ではないだろうが、それでも浜路が信乃に初めて魅力を感じるシーンは観客にとって倒錯的でありうる。
浜路が信乃に好意を持つ理由は「毛並みが綺麗だ」という視覚的なものによる。女性が視覚的な要素によって男性を欲望しないわけではないのだが、近代以降そうした視線はもっぱら男性的なものとして扱われてきた。この作品はそうした視線を男性から女性に取り戻す試みとして見る事も一応不可能ではない。浜路は信乃を見初める時点では「ジェンダー的に女になっていない」わけだから、セクシュアリティが女性の個体の、男性に対するフェティシズムがより露骨に描き出されているといえる。浜路にしてみれば素直に感情を吐露しただけの表現であるからこそ、ジェンダーとセクシュアリティの問題が表現として重ね合わされる時、そこに観客は自身の価値観の特殊性を見出す。同時に男性でありながら女性として男性の魅力を口にする、女性でありながら男性が女性にするように男性の魅力を口にする、といった倒錯的体験が可能になる。しかも(正体が分かるのは後の事ではあるが)相手は江戸が誇る最高の美男子なのだ。浜路の視点から見ればフェティシズムを掻き立てられない方がどうかしている。
が、それにしては信乃の描写は控え目である。それに対して信乃を欲望する浜路の描写がしっかりと描かれている。あくまでこの物語は浜路の変化を描く事に力点が置かれている。
なにはともあれ最終的に男役の女・浜路と女役の雄犬・信乃は「八犬伝」の伏姫と八房の逢瀬をなぞり、一時の事とはいえ結ばれる。しかしそこで物語は完結しない。少女の性や恋愛はこの物語を牽引する横糸にすぎない。

5.つながる事、与える事
冒頭の狩りのシーンで白い犬と「つながった」浜路は、銃の一撃でこれを仕留めるが、犬が流した涙にたじろぐ。直後に浜路の祖父が死んだ直後であることが明かされる事で、このシーンの一応の説明がなされるが、その後もこのエピソードは作中で度々別の形で姿を見せ続ける事になる。何故なら、それがこの作品を貫くテーマそのものだからである。
伏6体のさらし首を見た浜路は何かを言いかけて逃げ去るが、そこで言おうとした事は後に明かされる。「もらったらお返しをしなければならないとじっちゃんが言ってた」。白い犬の涙にたじろぐ浜路は、犬の命を奪った事を実感し、代わりに何かを与える術を知らない。
吉原で女の伏と「つながった」浜路は手傷を負わせるが、トドメをさす事ができない。浜路が「撃てない猟師」になったのはこの瞬間であろう。女の伏は命の代わりに手紙を芝の親兵衛に渡すよう頼むが、伏のさらし首の時点で親兵衛が死んでいる事は、観客に対しては明示されている。手紙は出す宛のない手紙であった。
女伏が親兵衛の親であるという設定によって、浜路が信乃の子を孕むという選択肢が暗に否定されているようにも思える。浜路と信乃の関係はあくまでプラトニックなままのようである。信乃が処刑されるのは城の屋根から一年半後だから、その間に子供を作る事も物語上は不可能ではないはずだ。だがそうはなっていない。何故か。
字を読めない浜路は馬琴宅で眼鏡少女に手紙の内容を読んでもらい、それが信乃に対して自分が贈るべきメッセージでもありうる事を発見する。そして、それは信乃を生かす事につながるため、浜路が殺した犬に対しての「お返し」ともなり、浜路の中で両者の帳尻が合うのである。そして、浜路が手紙という形で信乃に送ったメッセージの「お返し」はやはり手紙でなければならなかった。
この作品では「つながる」描写と「与える」描写が頻出する。
「つながる」描写は上述したものの他に、芝の興業がはけた後、眼鏡少女が浜路に恋愛の気配を察知する場面でも使われている。この作品では、基本的に特定の人物の周囲に黒ベタをかぶせて視覚的に孤立させる事で個人の内面を描写するが、この表現は他に江戸に出てきた直後の浜路、さらし首を見た浜路、吉原で伏を追う浜路、人間の魂を求めて苦しむ信乃に使用されている。他の箇所では孤独を描くために使われる表現が、ここでは少女達の共感を描くために使用されている。
登場人物同士が共感するシーンは、他に浜路が馬琴に「字が読めないのと目が見えないので似た者同士」といった事を言う場面でも見られる。この会話によって、馬琴の家に笑いが満ちる。「つながる」とは共感を意味してもいるのである。冒頭の白犬の涙にたじろいだ浜路は、犬の死と祖父の死を重ね合わせる事で犬に対して共感したという側面は見過ごされるべきではないだろう。女伏を撃てず、「撃てない猟師」になった理由も女伏に共感=感情移入したからである。これは信乃の「まがいものでも真剣に生きてりゃ本物」という言葉や、その後の役人の「生まれは関係ない」といった(いささか安っぽい)平等主義にもつながっていく。命はみな平等、共感できない生命は存在しないというわけだ。
獲物に共感し、命を奪う事ができなくなった浜路は代わりに信乃を生かす、即ち命を与える事で「銃で撃つ」以外の他者とのつながり方を手にする。浜路にとって「与える」事、「もらう」事は切実な問題なのである。女伏を殺した報奨金を分割にしてもらう理由は、直接には兄を気遣っての事であり、役人は「倹約の心得か」と言うがこの役人の解釈が意図的なミスリードである事は明白だろう。既に「撃てない猟師」になっている浜路にとって、命の代償に受け取ったと認識されている金は、単純に価値を肯定できるものではありえない。だからその金で食うどじょう鍋も旨くないのである。
信乃もまた、徳川将軍に命を与えている。一人の人間として内心を吐露した将軍の命を、信乃は助ける。将軍はその後「赤ん坊のように」眠り、信乃に遅れて浜路が現れた時は「子供のように」泣いている。そして最後には「酒を飲む大人」として描かれる。将軍は信乃に命を救われる事で生まれ変わり、村雨によって火事を消し止める恵みの雨を降らせる。
浜路も、信乃も、頑固な馬琴やその一家も、純血である事をアイデンティティーとし開国を恐れる将軍でさえも、他者との関わりによる変化から免れる事はない。この物語は、つながりあい、与えあう事で登場人物達が変化していく様を描いた、絆をめぐる物語である。冥土の物語と、この作品が「手紙の返事をもらった」で締めくくられる理由もそこにある。

補足
前田愛は「天保改革における作者と書肆」の中で馬琴を否定的に描き出している。私信の中で幕府の「武芸奨励」に感激し、「風俗匡正」をよしとし、春水の筆禍事件を嘲笑う馬琴の感覚は、確かに「戯作者のものではない」だろう。前田は他の文章でも馬琴の保守的な側面を批判している。「八犬伝の世界~夜のアレゴリィ~」では、「八犬伝」を前半後半に分け、前半部は人面獣心の妖怪達が闊歩する夜の世界に、犬士達が孤独な戦いを挑むものであったのに対し、後半部では作者の理想や政治理念が前面に押し出された結果、時代錯誤的なアナクロニズムに堕していく様が論じられ、むしろ悪の世界を描き続けた前半部にこそ当時の現実に届きうる力があったのではないかとしている。
馬琴は体制順応的な人間であって、勧善懲悪は当時の幕府の検閲方針に完全に一致するものであった。その意味で「八犬伝」を「伏=弱者のための物語」にしたかったとのみ語る伏の馬琴は、過剰に美化された後世の虚構に過ぎない。「虚構は虚構に過ぎない」と自らの作品を断じた馬琴は、正に虚構の権化のような存在なのであった。

作品の第一印象は「女性のための作品」だった。決してつまらなかったわけではないが、「女性に媚びる」描写が鼻についたと言ってもいい。だが、女性を欲望せずに、女性とその恋愛を見る事ができる作品だとも思えた。女性向けの意匠を凝らしてはいるが、それも副次的な要素に過ぎないだろう。性を扱いながら性愛を意識する事なく純愛を楽しむ事ができるという点がこの映画の特徴だと思う。その意味で浜路の造形は優れている。

歌舞伎という大衆芸術と信乃の「真剣に生きてりゃ本物」が重ね合わされている事は既に書いたが、この事は信乃の言葉が「表現」にまで及んでいる事を示唆している。要するに本物か偽物かではなく、真剣に作っているか、きちんとシェアされているかが問題なのだと、そこではなるのだろう。その後駄目押しで「生まれは関係ない」とごつい役人の発言によって平等主義が描かれるが、これは蛇足に過ぎる。信乃の言葉だけでも歯が浮いているというのに。好意的に解釈するならば、児童ポルノ法のような表現規制に対する抵抗として読む事は可能だろう。だが、字義通りにとった場合、これ程陳腐な表現もあるまい。
どう解釈するにせよ、唐突に現れた安っぽい平等主義としか見えないものが、正にその通りのものでしかないのなら、それは失笑しか買わないだろう(事実、映画館では苦笑を耳にした)。
安っぽい平等主義といえば、浜路の祖父はどうやって「お返し」をしていたのか。浜路はその事を知っていなければならないはずだが、そういった描写は見られない。また、信乃を生かす事で帳尻を合わせた浜路だが、これは浜路がそう思っているに過ぎず、白犬が(死の概念があるか、言語能力があるかは分からないが)浜路を許す理由は何もない。この話がどこか釈然としないのは、帳尻が合っていないからだ。
『EDEN』という漫画にこういう台詞がある。「「弱肉強食」と「生存競争」によって地球は生命の豊かな星になっているのです。「命の平等」を唱えたり自然を賛美するのは恵まれた環境にいる一部の人間だけです」。我々が飯を食わない日は一日もなく、我々の食う飯とは自分以外の生命に他ならない。浜路はこの問題にどのような答えを出すのだろうか?その答えを見てみたく思った。

009 RE:CYBORG

心を横断する奇跡

1.ミステリーと伏線
作品冒頭で主人公は中国で起きた「自爆テロ」の映像を見ながら「聖書風だが聖書にはない言葉」を呟き、六本木の高層ビルで「自爆テロ」を行おうとする。彼の行動は作中のマスメディアによって「狂信的なテロル」として予めフレームアップされており、観客もひとまずそういった視線で彼の行動を捉える事になる。
一方で、石ノ森章太郎の『サイボーグ009』のリメイクという前提で作品世界を捉える観客は、ここで既にいくつかの謎に出くわす。主人公が「テロリスト」になった理由、他のサイボーグ達はどうなったのか、世界は今どういう状況なのか…。これらの大半はイスタンブールの基地で博士によって説明される。
だが、その時までに観客は新たにいくつかの謎に出会っている。グレートブリテンやピュンマが見た神秘的な少女は何者なのか、「彼の声」とは何か、少女を見た二人の行方、チャンチャンコは何を知ったのか、細かいところではグレートブリテンが言う「俺達は何時から正義の味方じゃなくなっちまったんだ」の意味もそうだろう。
サイボーグ達の現況、世界中で続く自爆テロの様子、軍産複合体の暗躍とアメリカ政府の動向、グレートブリテンの言う「正義を見失ってしまっている」というジレンマとその克服等、いずれもセリフや服装の変化等ではっきりと描かれている。いくつか作中では明かされない謎もあるが、大半の謎は作中に答えが提示されている。
さて、この作品における最大の謎は「彼の声」とは何かだろう。この謎は冒頭の主人公が発した謎の言葉で既に始まっており、劇中で常に問題になり続け、その答えはラストシーンで明かされる。「彼の声」については後述する。
この作品は謎を作り出す事で観客を牽引し、その種明かしをする事でカタルシスを与えようとする物語構造をしている。

2.現代人へのメッセージと政治性
主人公は高校生の擬似記憶を持ち、自分にしか見えない彼女を持っている。『東のエデン』で「ニート」を取り扱い、自身もインタビュー等で積極的にメッセージを発信した神山監督が、ここで「実在しない美少女に心の安息を求める青年」に、現代の「長期化した青年期」を生きる人々を意識していると考えるのは不自然な事ではなかろう。
『東のエデン』と本作の最大の違いは、福島の地震を経験しているか否かである。『東のエデン』では「ニート」の社会進出を促していた監督だが、本作では「テロル」という極端な「行動主義」をモチーフに据える事で、「行動すればそれでいいのか」という疑問を投げかけているように見える。監督は、福島の震災と、その後の一連の展開の中に「個別の行動が既存の枠組みに絡め取られていく過程」や「行動が排外主義や攻撃的言動と=になってしまう構造」を見てしまったのかもしれない。
だとすれば、この作品は神山監督の、些か悲痛なメッセージと見る事もできる。では、そのメッセージとは具体的にどのようなものか。

3.彼の声とは何か
ハインリヒの説明によると、「神」とは人間が環境に適応するために発達させた「脳」そのものである。また、「彼の声」は人々をテロに走らせもするが、物語後半の主人公のように暴力から人々を救おうとする原動力ともなる。
結論から言ってしまえば、「彼の声」とは「自己犠牲の精神」である。これは神山監督が描き続けてきたモチーフだ。TVシリーズ「攻殻機動隊」の1と2ではタチコマ達によって、『精霊の守り人』では主人公・バルサやその養父が、『東のエデン』では主人公・滝沢が、「自分を犠牲にして誰かを救おうと」している。
本作のラストシーンでフランソワーズが「天使の化石は自分を犠牲にした人の化石なのだ」といった趣旨の事を言うが、それ故に「天使の化石」は人々に「自己犠牲的行動」を喚起するのである。そして「それぞれの立場からの献身」を模索した結果、ある者はテロルを行い、ある者はそれを止める事になる。主人公は「彼の声」に従う人々の行いが、マスメディアによってフレームアップされる「狂信的な自爆テロ」ではなく「自己犠牲の一つの形」なのだという視点を発見する事で正義の拠り所を取り戻し、「高校生=私人」の服から「サイボーグの制服=正義の味方」に戻る事ができたのである。正義の味方が守るのは、エゴイストでも狂人でもない、世界のために命を投げ出す善意の人々なのである。そしてこの視点を持つ事で、観客も物語冒頭で誘導された視点から解放され、作品を違った視点で見る事ができるようになる。ジェットも、「テロリスト」達も、軍産複合体の長でさえも、悪意や私利私欲からのみ何事かをなしたわけでは無かったのだ、と。

4.自己犠牲と奇跡の世界
物語最後の十数分、核弾頭を破壊し宇宙空間で死んだはずの主人公やジェットは、唐突に見知らぬ街に集まっている。そこでは、人は皆水の上を歩く事ができる。この「水の上を歩く」は、イエスが起こしたとされる奇跡の内の一つである。彼らは皆「まるでイエスのように」奇跡を体現している。要するに、そこは人々が「イエスのように」いたわりあい、各々の為に自己犠牲を厭わない、奇跡のような世界なのである。
上記のシーンは(恐らくは意図的に)シークエンス的に唐突な繋げ方をされている。その事自体が観客に違和感を産み出し、「ご都合主義である」事を強く意識させる。そう、全ては作り話に過ぎず、我々はそこで描かれる世界に住む事は決して叶わない。だが思い描く事はできる。我々は「脳=神」と共に生きているのだから。

5.補足
作中では、グレートブリテンとピュンマのその後、彼らが見た少女とは何者なのか、の二点が明確に説明されていない。サイボーグの二人がどうなったかは、少女の存在を解析する上で重要だと思うのだが、無いのだからしょうがない。
「彼の声」と少女は、ジェットが上官を殺し、ペンタゴンで暴れまわった時の描写からも関係がある事は明らかなのだが、あのシーンの少女は=「彼の声」なのだろうか?それとも少女は「彼の声」に従ったジェットを祝福しているのだろうか?恐らく両者は同じもので、天使の少女を見た者は、天使の化石を見た者と同様に、なんらかの行動を起こす事になるのだろう。グレートブリテンとピュンマの失踪はその意味では完全な謎とまでは言えない。
破壊の限りを尽くしたジェットの恍惚とした表情は、バトーを救おうと特殊部隊「海坊主」と戦った時の事を回想したタチコマ達の表現「えもいわれぬ法悦感」を思い出させる。タチコマ達はバトーを助けるために特殊部隊の兵士に自爆特攻を仕掛け、ジェットは「悪を倒す」ために暴走する。タチコマ達が「バトーさんを守れ」と叫び、ジェットが「敵か味方か」と問うた時点で彼らの「正義」が帰結するところは明らかだったわけだ。
本人にしか見えない存在=「脳内の神」がこの作品の重要なモチーフになっている。この「脳内の神」は、世界中の脳を横断して歩いている。それはジェットを暴走せしめ、ジョーに安らぎを与え、恐らくは世界に核を降らせてもいる。
「脳内の神」に突き動かされる人々を見ていると、まるで脳それ自体が社会の破滅を望んでいるかのように思われてくる。「脳内の神」はもう何千年も我々に原罪を償う事を求め続けている。
皆が自分の思う正義を衝突させ続ける、戦いの絶えざる世界。この作品はそのように現代世界を描き出している。我々には「それらの全てを背負い、守ろうとする」サイボーグ戦士達はついていない。サイボーグ戦士達は、2ndGIGにおけるクゼのように、上部構造として人々の啓蒙を図ろうとするが、この「上部構造による下部構造への働きかけ」も神山監督の作品には頻出する。それは、映像というメディアを通して視聴者へ働きかけるという、映像監督の在り方を正確になぞっている。
この、啓蒙という「傲慢な」考え方に対する違和感も、2ndGIGでは明確に描き出されていた。草薙素子がりんご=知恵の実を、なんだかよくわからない理由でかじらない事で、クゼのやり方への明確な違和感の表明を行なっている。だが、本作ではジョーを「やや思い込みが激しい青年」のように描き(脳内彼女やヒルズへのテロ未遂に象徴される)、宇宙空間での大仰な台詞回しによって観客に違和感を抱かせようとするにとどまっている。神山は今のところTVシリーズ程には、劇場映画の作劇が上手くないようだ。
とまれ、映像がいくら啓蒙的に振舞おうと、一個人に過ぎない我々は状況に対して余りに無力だ。私がこの映画を「些か悲痛なメッセージ」として受け取った理由も、表現がそうした無力感と表裏になっていると感じたからだ。
この映画は説教臭く、暗い。
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